BOOKWORM

本は鎖のようにつながっている。そんな”ぼく”の読書体験とちょっとした感想、とか。

020|たとえその恋が祝福されなかったとしても/『玉藻の前』岡本綺堂

今まで恋をして後悔をしたことがあっただろうか。──

うん、なかなか気持ち悪い書き出しだ。ぼくが今、10代や20代であればまだ許されるような書き出しだけど、残念ながらぼくはもう40代手前であり、バツイチ独り身を謳歌し、もうあとは枯れ果てるだけというところまで来てしまった。そんな男がふいに恋を語るというのは、すこぶる気持ち悪いことだとぼくは思う。

でも、まあ、40年近く生きてきたからこそ、それなりに恋もしてきたし、けっこう波乱に満ちた恋路もあったわけだ。そして、後悔を語ることができるのも中年の役割なのだ。

残念ながら、ぼくの恋路は後悔の連続だった。あの時、ああしていれば、こうしていれば、なんていうことはぼくの常であった。しかし、それは不可逆な時間の中では当たり前のことであり、そのひとつひとつの気持ちに後悔があったかといえば、ぼくは恋をしたことに後悔したことはない。たとえ、それが人生を狂わせるような恋であったとしても、だ。

うん、やっぱり気持ち悪いな。しかし、ぼくはあの時、ひとりの女性に恋をして、彼女が消えてしまった今でもぼくは彼女に恋にしている。だからこそ、ぼくはこの作品に惹かれてしまったのかもしれない。

金毛白面九尾の狐、というと最近ではアニメのキャラクターにもなっているから、とても有名だと思う。しかし、ぼくたちの世代だと『うしおととら』のほうがなじみがある。一瞬で島ひとつ吹っ飛ばすあの絶対的なボスキャラだ(マジで凶悪なやつだった)。

その金毛白面九尾の狐が封印されていると石が栃木県の那須湯本にある。殺生石だ。平安時代末期、九尾の狐は玉藻前という美女に姿を変え、時の上皇の寵愛を受けたが、あの陰陽師安倍晴明の子孫である安倍泰成に正体を見破られて関東に逃れ、なんやかんやあって殺生石に封じられたという伝説だ。

岡本綺堂の『玉藻の前』はその伝説を下敷きにした若い陰陽師との悲恋の物語である。15歳の少年・千枝松と14歳の少女・藻(みくず)は幼なじみであり、互いに将来を誓い合うような仲であったが、ある日を境に藻は人が変わったようになり、貴族の屋敷に召し抱えられてしまう。千枝松は藻が自分のもとを去ってしまった虚しさから自らの命を断とうとするが、それを救ったのが陰陽師・安倍泰親だった。

もしも、彼女が絶対的な悪であり、それが自分という存在と相容れないものであれば、男はそこまで苦しみはしなかっただろう。しかし、絶対的な悪というものが存在しないし、男は彼女のことを知ってしまっていた。もちろん、これは物語の話である。

そして、彼女は男に言うのだ。お前だけなのだ、と。その言葉の真意は、二人のあいだに培われた時間の中でしか分かり合えないのだ。だから、たとえ、それが自分の身を滅ぼすとしても、すべてのものを敵に回すとしても、その恋に堕ちていってしまうのだ。

最後に彼らが交わす言葉が胸を打つ。しかし、千枝松は後悔しただろうか、と考えてしまう。たとえ、それが決して報われるものがないとしても、ふたりの恋がどうか永劫に続いていくことを願ってやまない。

 

019|本当の恐怖/『インスマスの影』P・H・ラヴクラフト

昔、とある小さな過疎の港町で、販売員の仕事をしていた。

販売員とは、業種にもよるとは思うけれど、なかなか厄介なお客さんが多く、前世に罪人だった人が就くような職業でもないかと思えるくらいひどい職だった。

クソみたいな要求なんて日常茶飯事だったし、いきなり怒鳴り声を上がる輩気取りも普通だった。あまりに酷いのは店からつまみ出していたけれど、それでもあまりにヤバい奴らが多すぎて、過疎の原因はこいつらではないかと真剣に考えたものだった。

それでもぼくの性格が捻じ曲がらずに?やっていけたのは、同僚たちのおかげだと思っている。若い女の子たちばかりでぼくよりも10歳は年下だったけれど、中年男相手にも分け隔てなく接してくれた。

彼女たちは皆いわゆる“オタク”で、でも、ぼくの世代たちにあった少しネガティブなイメージのあった“オタク”とは違い、あけっぴろげに好きなものは好きと言えるような人間たちで、とても好感の持てる人間たちだった。

そんな彼女たちから一緒にやろうと勧められたゲームがある。スマホゲームの『Fate/Grand Order』だ。有名なゲームなので内容は説明せずともわかる人も多いはずだ。なかなかよく出来たゲームで世界史の人物たちや文学上の人物たちがキャラクターとして活躍する。前に『海底二万里』でも紹介したがネモ船長も出てきて、読書が趣味のぼくからしたらかなり熱い。

そして、まさかクトゥルーまで出てくるとは思いもしなかった。

「店長、クトゥルーって知ってる?」
ラヴクラフトだろ? 読んだの?」
「ちがうよ、新章の配信動画みてないの? 今度のFateの新章、クトゥルーだよ!」

これはぼくがあの町で過ごした数少ない心温まる思い出である。

だから、書店で新潮社から出ていたクトゥルー神話の文庫を3冊買った時、ぼくはその時のことを思い出していた。たった数年前のことなのにとても懐かしかった。

そんな風にラヴクラフトを手に取って、ほっこりするなんてなかなかないことだと思う。中身はなかなかにヤバい代物だ。なんとなくてこれまでホラーやSFといった類は敬遠してきたのだけれど、読書が好きと公言するのであればラヴクラフトを読んでいなければ、それもそれでなかなかにヤバいと思う。

というわけで、40年近く生きてきて、ようやくラヴクラフトの『インスマスの影』を手に取ってみたわけだけれど、これは本当にヤバかった。さっきからヤバいとしか言っていないので、昔のギャルみたいになっているが、本当にヤバいのだ。

何がどうヤバいのかって、たとえば臭いだ。あのおぞましいクリーチャーたちの表現というよりも、彼らが残す痕跡の中に臭いがある。その描写があまりにも緻密であり、まるで鼻先に腐臭が漂ってくるかのようなのだ。

そして、痕跡といえば、その得体の知れない残留物だったり、あるいは音だったりと、そういった周りにあるものたちを緻密に描写し、姿をはっきりと見せないことでさらに恐怖を生むのだ。

これは余談だけれど、昔、友達の家に泊まって、酒を飲みながらホラー映画を見たことがあるが、最初のうちは得体の知れない不思議な現象がとても怖く、大の男が4、5人もいて口も聞けないくらいだったが、最後、その現象を起こすボスキャラ的なものが出てきてしまった時にはとてもがっかりしたものだ。緑色のゼリーみたいな怪物で、今まで怖がっていたのがバカらしくなってしまうほどだった。

つまり、見えないということはとても恐怖であり、ラヴクラフトはそのことをとてもよく理解している作家だと思った。秘すれば花、とは芸能の極意ではあるけれど、恐怖というのも似たようなものであると思う。とくに表題作の『インスマスの影』では、視覚以外の五感が途方もない恐怖という感情を駆り立てる。

この作家が生前評価されなかったというのは、陳腐な言葉かも知れないけれど、時代が追いついていなかったのかもしれない。彼の死後、彼の遺した神話が多くのクリエイターたち引き継がれ、大きな大系を成しているのはそういうことだろう。ホラーを毛嫌いしてきたぼくが、魅せられたということもそうなのだろう。

もしも、というのは歴史にはあってはならないことだし、文学史にとってもそうだ。しかし、ラヴクラフトが早逝しなければ、いったいどんな作品群が生まれていたことだろう。

初めて出会えたホラー作品がラヴクラフトで本当に良かったと思う。

018|いったいぼくらはどこから来てどこへ行くのか?/『月と六ペンス』サマセット・モーム

昔働いていた職場でいつもガールズバーの話しかしない先輩がいた。

彼は当時40代でぼくより16、7歳は年上だった。性格はとても優しくて、とても面倒見のいい人であったけれど、とても残念なことに口を開けばガールズバーの話しかしなかった。たまに違う話をすることがあったとしても、キャバクラの話であり、本当にこの人はどうやって生きてきたのだろうか、当時20代そこそこの若造から心配されるような始末だった。

当時の職場は大手町の鉄鋼ビルにあった。もちろんTOKYO TORCHなんておしゃれなビルは影も形もなく、八重洲周辺は雑然としていて、とても胡散臭い空気が流れていた。ぼくの職場のあった鉄鋼ビルも今のような豪奢なビルではなく、とてもさえない黄土色をした8階建てのこぢんまりとしたビルだった。戦後すぐに建てられてそのままになっているとのことだった。

ビルの地下には休憩スペースがあって、ぼくはいつもそこにいた。死ぬほどムカつく上司(ちなみにこれまでムカつかない上司には出会ったことはない)のいるのとても嫌いな仕事であったけれど、そこの休憩室は利用する人も少なく喫煙所もあって、ぼくは昼休みの時間になると文庫本と小銭とタバコを持ってその休憩スペースにある自販機で缶コーヒーを買い、とてもゆったりとした時間を過ごした。そして、かの先輩もそこの休憩所の利用者であった。そして、ぼくたちは一緒にタバコを吸いながらガールズバーの話をした。

しかし、ある日と、先輩はふと文庫本を読んでいたぼくの手元を覗き込んで、何を読んでいるのかと聞いてきた。彼が本に興味を示すなんてことは今までありえないことだったから、世界が終末に向かっているのではないかと思えるくらいにぼくは驚いた。

驚きながら、ぼくが本の名前を教えてやると、彼はふうんと鼻を鳴らした。

「俺は本はあまり読まないけど、アーヴィングだけは読んだな。ガープの世界──映画も面白かったから読んでみなよ」

その時の先輩の照れたような笑みが今でも忘れられない。昔、北海道から出てきて、フラフラと生きてきたんだと語ってくれた先輩は、今はどこで何をしているのだろうか?

ちなみに、その時、ぼくが読んでいた本が『月と六ペンス』だった。

あれからどれほどの時間が経ったのだろうか。まるで静かな水の中でずっとうずくまっていたような気がする。なんて、ちょっと詩的な表現をしてみるけれど、残念ながらぼくには文才はなく、小説家を目指した時期もあったけれど、どうやらぼくは決定的に才能に恵まれなかった。だから、天才という存在にはどうしても憧れてしまう。

天才といえば、ぼくはこれまでひとりだけ会ったことがある。彼はぼくの友人であり、絵を描き、国内ではホープとして期待されて、若手の注目株で大きな賞を獲りながらもサッと美術世界から足を洗ってしまったような男である。今はどこで何をしているのかは知らない。

まるで『月と六ペンス』のストリックランドのように破天荒な男であった。しかし、その天才ぶりは真逆であり、『月』が夢で、『六ペンス』が世俗的なものを表していると言われているが、彼はストリックランドとは違い、夢と現実を秤にかけ、かんたんに現実を選んでしまうような男だった。

しかし、それもまたストリックランドと同じ狂気であるような気がした。ストリックランドは、世俗を捨て、いわゆる「月」を選び、芸術という狂気に取り憑かれ、友人の妻(友人と思っていたかどうかすら怪しいけれど)さえも奪った上に自殺させ、タヒチに逃げて、最後には自分の描いた壮大な大作に火をつけて燃やしてしまう。

結局はその狂気なのだ。「月」と「六ペンス」はまるで二律背反のように決して相容れないもののように語られるけれど、それは裏表で対比するようなものではなく、結局のところ、どちらかに振り切ることが狂気なのだ。

ただその狂気がもたらすもの、あるいが連れていく先はどこにあるのかということだけが問題なのだ。ストックランドは疾走し続けた。そこに善悪の基準もなく、ただ芸術という狂気に身を任せたのだ。しかし、その最後でぼくはいつも思った。彼はどこに辿り着いたのだろうか、と。

友人の彼も同じだ。天才と呼ばれながらももてはやされながらも「絵なんて金にならないからね」と颯爽とその舞台から降りてしまったのも狂気であり、それが彼をどこへ向かわせたというのだろうか。

始まりはいつも同じなのだ。ストリックランドも、友人だった彼も。人生の始まりとしての等しく与えられた瞬間を潜り、そしてどこへ向かうかもわからない狂気の先へと行こうとするのだ。

しかし、いつだってぼくたちはその先を見ることができないし、天才ではないぼくにはなおさらそうなのだ。だからこそ、天才という存在に憧れ、その狂気に何度も触れてみたいと思うのだ。

久しぶりにこの作品を読んで、そんなことを途方もなく考え、天才ではないぼくには関係のないことだな、とそっと自嘲的に笑ってみた。

 

017|花に誘われて/『十八の夏』光原百合

ぼくが18歳というともう20年ほど前のことだ。

20年なんて過ぎてみればあっという間だったし、大したことがあったわけでもないけれど、考えてみればけっこうな時間である。あの頃生まれたばかりの新生児たちはみな成人しているわけだし、あの時成人したばかりの若者たちはもう立派な中年になっている。ぼくも腹回りだけは立派な中年になってしまったというわけだ。本当、嫌になってしまう。

そんな20年という記念碑的な時間の節目に、この眩しげなタイトルの本がふとぼくの前に現れたのは、何かの巡り合わせなのか──まあ、断じてそんなことはないのだろうけれど──ともかく本棚を整理していたらふと昔買った本たちの中にこの本も紛れていた。

『十八の夏』なんて、なんて率直で瑞々しいタイトルだろう。

当時、論理哲学考やら純粋理性批判なんていうゴリゴリの本を読み漁っていたぼくがこんな素敵なタイトルの本を買うなんて、きっと気が触れていたのかもしれない。なんたって、この本と一緒に出てきたのは、『堕落論』と『死に至る病』である。本当に嫌になってしまう。

ともあれ、一時の気の迷いであろうとその本を買っていたことで、ぼくの青春時代は多少なりとも救われた気はする。

そういう本を買おうとする感性は残っていたのか、と。

そんなわけで、18歳から20年経ったある風の強い休日の午後、ぼくはその本棚の奥から出てきてそのまましまわずにいたその本のページをふと開いた。

穏やかな春の景色がゆっくりと立ち上がり、どこか懐かしい感情が溢れるような出だしから、一気に物語の中に入り込んでいけたのは、難解な表現もなく、素直な情景描写や繊細な心情描写のおかげだろう。

朝顔金木犀ヘリオトロープ夾竹桃──花をモチーフにした連作の短編集であり、それはとても色や匂い、その美しさによって、決定的に印象付けられる。何より誘われるのだ。その色や匂いや美しさによって。

恋愛ミステリー小説の流行の走りだった当時の空気感をしっかり感じることができて懐かしかった。

女性だ男性だのというと今の時分はあれなこともあるけれど、作者は女性でありながら主人公はみな男であるのもめずらしい。しかし、女性作家特有のあの繊細で鋭い感情の切り取り方で、主人公たちの機微をしっかりと捉えている。

昼過ぎに読み始めて夕方になって風がおさまる頃に本を読み終えると、なんだかとても晴れなやかな気分になった。こうやって休日に気負いなく読める本は、本当に良い本であると思う。坂口安吾やらキュルケゴールなんて、さあ、読むぞ、って思うまでにものすごいカロリーを要するんだもん。

こういう本は本当に素敵だと思う。

ただ残念なことにこの本が20年に近い歳月を本棚の奥で過ごしている間に、作者の光原百合さんは亡くなっていた。こうやって何もかもが過去になっていくのはとても悲しいことである。ご冥福をお祈りします。

 

 

 

016|誰でもない男/『海底二万里』ジュール・ヴェルヌ

離婚をした時、いちばん最初に思ったのは、まあ、こんなもんだろうと思った。

ぼくはぼく自身の時間に対してあまり期待なんてしてこなかったし、それは今でも変わることはない。だから、そういうネガティブなライフイベントも、まあ、こんなもんだろうと思った。

人並みに家族を持って、休日には家族サービスをして、妻の誕生日にはサプライズをしたり、子どもと2人でキャッチボールをしたり、新築の家を買ったり、そういうなんの影も落とさないような幸福な時間は、ぼくにとっては過分だった。

それは結婚した時からずっとぼくの後ろに影のように付き纏っていたような気持ちだった。だから、家族としての最後の時間を過ごした夜、家を出る時、車のエンジンをかけながら、かつての居場所へと戻っていくだけだと自分に言い聞かせた。ぼくはもう何者でもないのだ、と。そうだ、ぼくはずっと幸せなだけだったのだ、と。

しかし、だからと言って、それまでの時間に落差を感じないほど唐変木でもなかった。生まれ育った家に帰ってきて、もうかつての家族たちも散り散りになった家で、ひとりになってしまった休日の時間をどうして過ごそうか、窓際の陽だまりの中で考えている時に、ふと前の家から持ってきた文庫本を手に取った。

引っ越しの時の慣例で、ぼくは引っ越すときに何冊かの本を決めて持っていくようにしているのだけれど、なぜ、その本が入っていたのかはわからなかった。なんの馴染みも思い入れもない本だった。それが『海底二万里』だった。

 

誰でもない男

誰とも言葉を交わすことなく過ぎ去っていく静かな休日に、その冒険譚はぼくの心を湧き立たせた。遥かな海洋の旅路は色とりどりで、モノクロの挿絵さえも華やかなものに見えた。

海底二万里』と言えば、ノーチラス号であり、ネモ船長である。多分、世界で最も有名な潜水艦とその船長かもしれない。ディズニーが好きな人であれば知っている人もいるだろうし、最近ではゲームなんかでも登場する。

そういえば、昔、とあるお店に勤めていて、スタッフの若い女の子たちがスマホゲームの『Fate Grand Order』にハマっていて、ぼくも勧められてやったことがある。そのゲームにもキャラクターとしてネモ船長が出てきていた。

ぼくはこれまでそういう冒険小説は、同じ作家の『十五少年漂流記』しか読んだことがなかったから、そういう感覚で読んだのけれど、本当に同じ作家が書いたものであるのかと疑うほどに、内容は遥かに濃密だった。

19世紀という科学の黎明期に、なぜこれほどのことが書けたのだろうかと思えるくらいにノーチラス号の機能の描写は緻密であり、潜水艦自体がまだ歴史に登場していないこの時代にこの作品を書いたのだから、ヴェルヌの想像力がいかにとんでもないものかがわかる。それに海洋生物に対する知識の豊富さも圧倒的だ。ここまで圧倒的だと読者は置いてけぼりにならず、感嘆しながらも、次はどうなるだろうと物語に引き込まれるだろう。

当時はきっと海の中というのは未開の地であっただろうから、その冒険譚は当時の人々の好奇心を大いに刺激しただろうと思った。

そして、ネモ船長だ。生い立ちなども秘匿され、謎の多い人物である。紳士であり、冷静で、それでいながらその実、激情家で俗物的な一面もある。彼の正体はヴェルヌの別の作品『神秘の島』で明かされることになるのけれど、この作品ではその正体は明かされないまま、物語は終わる。終わるというの表現がはたして正しいのかどうかはわからないけれど。

彼の旅路はまだ続いている。そんな遥かな時間にぼくは思いを馳せながら、この”誰でもない”という意味を持つネモという男を思った。孤独であり、孤高であるこの男はあまりにも格好良すぎた。この男のように、何もかもを捨て去り、自分の中にある目的のためだけに生きることができたら、と何者でもなくなったぼくは思った。

それでも本を閉じたぼくの前には、茫漠とした時間が広がっていて、ぼくに生きることを求めていた。

きっとできるさ、とぼくはひとりぼっちのがらんとした部屋の中でそう思った。少しだけ勇気をもらった。そのすぐ傍では春が終わろうとしていた。

 

 

 

 

015|『世界の中心で、愛をさけぶ』片山恭一|生の輝き

<内容>
高校2年生の朔太郎と、恋人のアキ。アキの死から、物語は始まる。ふたりの出会い、無人島への旅、そしてアキの発病、入院……。最愛の人を失うとは、どういうことなのか。


 

高校生の時、作家になりたいと思った。

昔から読書が好きで作家になりたいと思ったわけでもなく、急に天啓が降りてきて作家になりなさいというお告げがあったわけでもなく、本を読んでいるうちに「小説を書いてみたい」と思うようになったのだ。

そのきっかけとなった本がある。片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』だ。

高校生の頃、母親が何を思ったのか、ふいに買ってきて、「あんた、小説でも書いてみたら」と渡してきたのだ。ちょくちょく本は読んでいたけれど、「小説を書いてみる」なんてことは思ってもみなかった。たぶん、勉強もしないでいつも寝てばかりいたぼくを見かねてのことだったのだろう。

さすがにベストセラーになるだけではある。後に映画化もされて、社会現象になるほどであったから、とても面白い本だと思った。

これは母親の大きな間違いであった。何せ、その時、ぼくは受験生だったのだ。なるほど、ベストセラーになる本はこういう本なのか、とぼくは毛ほどはしていた受験勉強の時間も割いて、本を読むようになり、残念ながら志望校は全滅し、どうしようもないような私大の経済学部へと滑り込んだ。まったくもって残念なことである。

まあ、それはそれとして『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んだことは、ぼくの転機であったとは思う。

 

生の輝き

この小説がヒットしてから、何につけ、やたらと長いタイトルの作品が目につくようになった。ただ、それまではそういうタイトルの付け方はなかったから、こういうのもありなんだという、創作に対する幅が大きく広がったようには思う。

ぼくも当時書いていた小説──とても披瀝できるものではないけれど──そういう長いタイトルばかりつけていた。

そして、やはりヒロインの死というのは、どうしたって多くの人々の心を掴む。たとえば、『いちご同盟』のように、あるいは『ノルウェイの森』、もっと遡ればジッドの『狭き門』もそうだ。それはずっと繰り返されてきたことだし、死はぼくたち生きるものにとって、傍観することしかできない大きなテーマなのだ。

ともするとそこに比較が生まれるし、そこに意味の深度の推しはかりあいのようなことが始まってくる。そうすると作品が意図されない意味を帯びてきてしまう。

この作品の芯というのか、物語が描かれたがっていたところというのか、そこは恋人の死という部分ではなく、純愛であるということ、とくにキスシーンにあるのではないかと思っている。

枯葉の匂いがするファーストキス、うがい薬味のするキス──こんなにも印象的なキスシーンはちょっと他にはないと思う。これらのシーンのために、プロットだとか、背景や設定なんていうものが持ち出されたものだとしたら、この作品はやはりこの作品になるべくしてなったのだと思う。

生と死──その一瞬の重なりの象徴のようなものとしては、あるいは生の一瞬のきらめきのようなものとして、切り取られたそれらのキスはあまりにも悲しくて淋しい。

──キスでもしませんか?

ヒロインの亜紀のそんなセリフにもドキッとさせられてしまう。

死とはなにか?──そのテーマの中に生の輝きを確かに見せてくれる作品だと思う。

 

 

014|『ノルウェイの森』村上春樹|生と死との距離

<内容>
あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと──。自殺した親友キズキ、その恋人の直子、同じ学部の緑。等身大の人物を登場させ、心の震えや感動、そして哀しみを淡々とせつないまでに描いた作品。


 

21歳の時、当時付き合っていた恋人から子どもができたことを知らされた。

その時、ぼくはまだ大学生で、あまり真面目に通っていたわけでもないから留年も決まっていた。そんな折のことだったので、当然周囲からはあまり祝福はされなかった。子どもを堕ろせ、なんて言ってくる人間たちもいた。結果として、ぼくは次の年、大学4年になって彼女と入籍し、子どもは無事に産まれてきたわけだけれど、それでも周囲はぼくたちに白い目を向け続けた。

だから、ぼくはぼくに良からぬ感情を向けてくる関わりに心を通わせることをやめた。拒絶したわけではない。ある一定の距離を取り始めたのだ。村上春樹の『風の歌を聴け』の中で、デレク・ハートフィールドが言っているように「必要なのは感性ではなく、ものさしなのだ」。

そうして、ぼくはそれからの20年近い時間の中で、周囲を取り巻くさまざまな事物との距離を測り始めた。おかげでたくさんの人間たちがぼくから離れていった。妻でさえもぼくから離れていってしまった。仕方のないことだ。ぼくは測り方を間違えてしまったのだ。

それでもぼくはこの生き方を後悔なんてしたことはなかったし、まあ、行きずりのような人生でも楽しく生きている。別のことをもってして相変わらず周囲から冷たい目を向けられることもあるけれど、ぼくは今楽しいのだ。

気分が良くて何が悪い?

 

生と死との距離

そんな風に村上春樹を読み始めたのは、『風の歌を聴け』によるところが大きいのだけれど、この本を手に取るきっかけを与えてくれたのが『ノルウェイの森』だった。

ぼくが『ノルウェイの森』を手にしたのは高校生の時だったから、それこそもう20年以上前のことだ。それから何度も読み返しているけれど、最初はどうせベストセラーの甘ったるい恋愛小説だろうなんて思っていた。幼さゆえの尖った感性というのか、当時のぼくにはそういうところがあったのだ。

まあ、それはいいとして、『ノルウェイの森』の話だけれど、最初に手に取った瞬間は今でも覚えている。劇的な瞬間や天啓のようなものがあったわけでもなく、それなのに、なぜかその一瞬をしっかりと記憶している。

ある暇な日曜日の午後だった。何か読む本はないかと本棚を漁っていて、誰が買ったのかわからない『ノルウェイの森』の単行本を手に取ったのだ。

──多くの祭り(フエト)のために

フィッツジェラルドを意識して書かれたあの扉の献辞に、当時はわからなかったけれど、なんだか格好いいなと思った。そうして、あとは夢中になって読んだ。

人が狂っていくということ、どことも知れぬ大きな穴の中へ落ちていく人間の様を初めてそこに見た気がした。人が壊れていくということは、あまりにも美しかったし、あまりも悲しく恐ろしかった。そうして、喪失ということをぼくは初めて知った気がした。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している

そのことを『ノルウェイの森』では、冒頭でこのように語っている。ゴシック体でわざわざ強調することにどういった意味があるのかなんて、そんなものは作者にしかわからない。

しかし、もし、ハートフィールドのようにあらゆる事物をものさしで測り続けていたのだとしたら、それが著者にとっての生と死との距離だったのではないだろうかなんて思ってしまう。そうして、ぼくにとってもだ。

この小説を読むことで、若かったぼくは傍にいた大切な人のことを思ったし、色々なものが通り過ぎてしまった今となってはかつて大切だった不在のものたちを思い出す。

「喪失」を意識しなければ大切な人たちのこと思い出すことができないというのは、とても淋しいことではあるけれど、その淋しさがとても心地よい。そんな小説だ。