
つい最近のことであるが、友人が新しくできた。この歳になると友人が新しくできるなんていうことはめっきり減ったから、とても嬉しいことではある。しかし、その反動なのか、ひとりの友人と縁遠くなってしまった。もう友人とも呼べないのかもしれない。ある時期を遊び歩いた、蜜月とも呼べるような時間を過ごした友人だったが、ちょっとしたことでその関係を違えてしまったらしい。
そうやって多くのものがぼくのもとを去っていく。入れかわり立ちかわりでぼくの前に多くの人間が現れて消えていく。でも、それでもいいのだと思う。もちろん、仲の良かった人間が去っていくのは淋しいことではあるけれど、ぼくはまだ世界を愛している。それはまるでグラース・シーモアのように。
世界を愛しすぎた男
サリンジャーの作品を読むとき、いつも彼だけは遠くにいた。シーモア・グラースという男である。ぼくが初めて彼に出会ったのは、『ナイン・ストーリーズ』の『バナナフィッシュにうってつけの日』だった。強烈な印象を残す人物なのに、彼の姿だけはいつも荒い粒子でぼかされていた。
いったい、どういう男だったのか。何を考えていたのか。なぜ、あれほどまでに独特な世界の見方をしていたのか。『バナナフィッシュ〜』だけではもちろんシーモアという人間の輪郭をつかむことは難しいし、それ以降の作品に登場する彼の姿を追うだけでも無理だ。そうやってサリンジャーの作品を読み進めていきながら、ようやく『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章―』に辿り着き、初めてシーモアという男が「高い解像度」でその姿を見せた。
そこに見た彼の姿は「世界を愛しすぎた男」であった。
グラース・シーモアという男
まるで一葉の写真を見ているかのようにグラース・シーモアという男の姿が見えてくる。そして、彼への印象はまるで写真の裏書を見ているかのようでもある。だが、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』はシーモアの姿を追いかけているはずなのに、単純な「人物紹介」ではないところにある。
シーモアについて語られる言葉。彼を知る人たちの記憶。彼が残したもの。そして、彼を見つめるバディ・グラースの視線。そうしたものを通して、少しずつひとりの人間の姿が浮かび上がってくる。その姿は、ぼくが『バナナフィッシュ』で感じたシーモアとは過ごし違っていた。
もちろん、同じシーモアなのだ。けれど、その人物の背後にあるものが見えてくることで、以前は奇妙に感じていた言動にも、別の奥行きが生まれてくる。「ああ、この男はこういう世界の見方をしていたのか」と思う瞬間が何度もあった。彼を理解したわけではない。この男がなぜこれほど強烈な人物として残るのか少しだけわかったという感じに近い。
世界との距離が近すぎる
シーモアを読んでいて感じるのは、彼が世界から距離を置くことのできない人間だったということだ。普通なら、適当に流してしまうことがある。他人の言葉を聞き流したり、矛盾を「まあ、そういうものだ」と受け入れたり、嫌なものから少し離れて自分を守ったりする。でも、シーモアはそういうふうには生きていないように見える。
他人の言葉も、文学も、宗教も、愛情も彼にとっては、どれも「まあ、そんなもの」で済ませられるものではなかった。ひとつひとつが、あまりにも大きな意味を持ってしまうのだ。だから、ぼくはこの男を「繊細な人」と表現するだけでは足りないと思った。繊細というより、世界とのあいだにある距離が、あまりにも近い。世界の美しさに深く触れることができるかわりに、その醜さや矛盾からも逃げることができない。それがシーモアという人間の魅力であり、同時にこの男の抱えているものの大きさなのではないかと思う。
シーモアは、世界を愛しすぎた
そうだ、彼は世界を愛しすぎていた。『バナナフィッシュ』でシーモアに出会って以来、ぼくは彼をずっと「謎の人物」として見ていた。でも、この作品を読んで、その見方が少し変わった。謎が解けたわけではない。むしろ、以前より分からなくなった部分さえある。ただ、その「分からなさ」の中に、人間らしさを感じるようになった。
シーモアは、世界を冷たく突き放した人ではなかった。少なくともぼくには、そうは見えない。むしろ世界に近づきすぎた。人間に近づきすぎた。美しいものに、純粋なものに、愛すべきものに、近づきすぎた。だからこそ、世界のすべてを簡単には許せなかったのではないか。そんな風に思う。
『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』は、シーモア・グラースという人物についての本であると同時に、ひとりの人間を愛して、その人間について語り続けることの難しさを描いた作品でもある。そして読み終えたあと、ぼくの中に残ったシーモアは、「世界を愛しすぎた男」だった。
彼をまだ読んだことがない人には、あまり多くを説明せずに読んでほしい。そして、すでに「バナナフィッシュ」のシーモアを知っている人には、ぜひその記憶を持ったまま、この本を開いてみてほしい。きっと、以前とは少し違うシーモアが見えてくる。








