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日々夏休みのノリで読書感想文を書いています。

114|『ラスト・タイクーン』スコット・F・フィッツジェラルド|完成することのできなかった物語は強く残る

『ラスト・タイクーン』スコット・フィッツジェラルド|角川文庫|2026.07.02 読了

 前にヘミングウェイの『移動祝祭日』を読んだ。あれは作家が”遺作”にふさわしい作品であった。目の前に情景、過去への憧憬がありありと浮かんでくるような、そんな作品だった。死を前にした人間の眼前を埋める景色というものは、なるほど、こういうものかと思った。そして、作品は書き上げられ、彼の人生は閉じた。

 

 しかし、フィッツジェラルドは違った。『移動祝祭日』にも出てきた彼であったが、彼はアルコールに溺れながらも生き続けたが、『ラスト・タイクーン』を書き上げることができなかった。

 

 だから、それを読んだぼくもまた、読み終えたはずなのにまだどこかで続いているようだった。終わらなかったのではなく、終われなかったのだ。終わりに向かう運動そのものが、途中で切断されたまま露出しているような感覚があった。

 

物語は、ハリウッドの映画スタジオを舞台に進む。
中心にいるのは、若くして巨大な成功を手にしたプロデューサー、モンロー・スター。彼はスタジオの中核として作品を統率し、俳優や監督、脚本家たちを動かしながら、映画という巨大な虚構を現実の中に組み上げていく。

その一方で、彼の内側には、すでに失われた誰かの影が残り続けている。ある出来事をきっかけに、彼はその面影と重なる存在に出会い、現実と記憶の境界がわずかに揺らぎはじめる。

物語はその揺らぎを軸に進んでいくが、決定的な何かに到達する前に、ふと手を離されるように途切れる。

 

 物語はハリウッドの映画スタジオを舞台に進んでいく。中心にいるのは、若くして巨大な成功を手にしたプロデューサーのモンロー・スター。彼はスタジオの中核として作品を統率し、俳優や監督、脚本家たちを動かしながら、映画という巨大な虚構を現実の中に組み上げていく。

 

 その一方で、彼の内側には、すでに失われた誰かの影が残り続けている。ある出来事をきっかけに、彼はその面影と重なる存在に出会い、現実と記憶の境界がわずかに揺らぎはじめる。物語はその揺らぎを軸に進んでいくが、決定的な何かに到達する前に、ふと手を離されるように途切れる。

 

しかし、彼はすでに完成に取り憑かれていた

 彼の特異さは、成功していることではない。むしろ、成功しているにもかかわらず、それを安定として受け取っていない点である。常に何かが不足している。じゅうぶんであるはずの場所にいながら、まだ完成していないものを見続けている。完成に近づいているのではなく、完成に追われているのだ。

 

 この感覚は、どこか歪んでいる。しかし、同時に現実的でもある。何かを作る人間が、ある地点で「もうこれでじゅうぶんだろう」と思ってしまったら、それはその瞬間に全てが止まってしまうからだ。

 

愛は現在ではなく過去に属している

 彼の中にある決定的なものは、「現在」には存在していない。それはすでに失われたものとして、過去の中にある。そして、その過去は単なる記憶としてではなく、現在の行動を規定する力として働き続ける。

 

 ここで起きているのは「思い出す」というよりも、「引きずられている」に近い。過去にあった何かが、現在の選択を静かに拘束している。その結果として、彼は今ここにある現実よりも、かつて存在したものの方に、より強く引き寄せられていく。

 

だから物語を完成できない

 この物語には、「完成」という言葉が何度も顔を出す。けれど、その完成は一度も実現されない。映画は作られ続ける。関係は動き続ける。しかし、それらはどこにも落ち着かない。理由は単純で、彼が見ているものが現在に存在していないからだ。

 

 過去に属する何かを、現在の中で再現しようとする。その試みは、構造的に失敗する。だから彼の仕事は止まらないし、同時に終わることもない。

 

未完であることが、むしろ正確に見える

 この作品が未完であることは、欠陥のように語られることが多い。けれど読んでいると、むしろこの形のほうが正確なのではないかという気がしてくる。もしここに明確な結末が与えられていたら、それは彼の運動を止めてしまうことになる。

 

 未完であることで、この物語は「終わらない運動」をそのまま残している。完成に向かい続けること。しかし、決してそこに到達しないこと。その構造自体が、作品の形と一致している。

 

それでも、人は作り続ける

 少し引いて見ると、この物語が描いているのは、ひとりの人物ではなく、もっと広いもののようにも思える。作ること、何かを完成させようとすること、そして、その過程で、すでに失われたものに縛られ続けること──これは映画の話であると同時に、仕事や人生そのものの話でもある。

 

 何かを作り続ける限り、完全な満足は訪れない。けれど、その不完全さがあるからこそ、次に進むことができる。

 

終わらないものだけが残る

 読み終えたあとに残るのは、明確な結論ではない。むしろ、「終わらない」という感覚そのものだ。完成しなかったもの、到達しなかったもの、回収されなかった感情──そうしたものだけが、なぜか強く残り続ける。

 

 だからこの作品は、読み終わったあとに終わらない。むしろそこから、ゆっくりとこちら側に入り込んでくる。完成していないからこそ、閉じない。閉じないからこそ、残り続ける。そんな奇妙な強度を持った一冊だと思う。

 

 

 

113|『彼女の思い出/逆さまの森』J.D.サリンジャー|思い出は、時間の中に収まらない

『彼女の森/逆さまの森』J.D.サリンジャー|新潮社(新潮文庫)|2026.06.22 読了

 

 以前、『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』を読んで以来、ずっとサリンジャーがぼくの心に棲みついている。若い頃に置き忘れてきた読書体験だったからだろうか。『ナイン・ストーリーズ』を皮切りに、サリンジャーを読んではぼくの中に懐かしさにとらわれる。

 

 ただ、『ナイン・ストーリーズ』で書いたあの日のことが、ずっと閉じられないまま、ぼくの中に残っているような気がする。あの瞬間は確かに終わり、あそこから引き継がれたものたちは、もうぼくの周りにはほとんど残っていない。それでもあの時間はまだ終わっていないような気がするのだ。

 

思い出は、時間の中に収まらない

 読み終わったあと、すぐにページを閉じることができなかった。『彼女の思い出/逆さまの森』に収録された『彼女の思い出』は、読んでいるあいだよりも、読み終えたあとにゆっくりと効いてくる。ページを閉じたあと、いったん手元から離れたはずの物語が、どこかでまだ続いているような気配を残す。そんな種類の作品だと思う。

 

それは、よくある話に見える

 読み始めたとき、この物語はどこか見覚えのある輪郭をしているように感じられる。過去に出会った誰か、うまく言葉にできなかった関係、そしてそれが過去として語られていく形式。少し不器用で、少しだけすれ違って、それでも確かに何かがあった、という記憶の語り方。それ自体は特別なものではない。むしろ、ぼくたちがすでに知っている型に近い。

 だからこそ、読者は一度安心する。これはきっと、過去を振り返る物語なのだと。時間の中にきちんと収まっていく種類の思い出なのだと。けれど、その感覚は長くは続かない。

 

どこかで、閉じ損ねている

 読み進めるうちに、説明のつかない違和感が残り始める。何かが足りないというよりも、何かが終わっていない。きちんと幕を引かれるはずのものが、わずかに開いたまま残されているような感触。

 思い出というものは、本来、時間によって整理されていくはずだ。遠ざかることで輪郭がやわらぎ、「あの頃は」と言い換えられるようになり、やがて現在とは切り離された場所に置かれる。そうやって、過去は過去として安定していく。

 しかし、この物語の中では、その安定が訪れない。語り手の中で、出来事は終わったはずなのに、終わりきっていない。時間の外に出ることができず、かといって現在の中にも収まりきらない、宙づりのままの記憶として残り続ける。

 

語られないことが、形を変えていく

 その理由は、おそらく「語られなさ」にある。とりわけ決定的なのは、彼女のその後がはっきりと示されないことだ。何が起きたのか、どうなったのか、その確定が与えられないまま、物語は終わる。

 本来であれば、語られない部分は欠落として機能するはずだ。しかしここでは、それが逆に働く。欠けているはずのものが、欠けたまま残るのではなく、読者の内部で増殖していく。

 ひとつの可能性が浮かぶ。だが、それを否定するだけの材料はどこにもない。だから別の可能性も同時に生まれる。そうして、いくつもの「あり得たかもしれない」が重なり合い、記憶は一つの形に定まることがなくなる。

 結果として、思い出は閉じることができなくなる。

 

時間が、意味を遅れて運んでくる

 この感覚は、どこか現実の記憶に似ている。すでに過ぎ去ったはずの出来事が、あるとき突然、別の重さを帯びて戻ってくることがある。あのときはただの会話だったものが、後になって意味を持ち始める。あのときの沈黙や、選ばなかった言葉や、何もできなかったという事実が、時間を経てから輪郭を変える。

 未来を知ってしまった現在の視点から、過去が書き換えられていく。この作品の中で起きているのは、その遅れてやってくる意味の運動だ。出来事そのものはすでに終わっているにもかかわらず、その意味だけが後から追いついてくる。そして、その意味は、過去の中ではなく、現在の中で作用する。

 

懐かしさではなく、静かな侵食

 だからこの物語を、単純に懐かしさとして受け取ることはできない。そこにあるのは、もう少し厄介な感触だ。過去が現在の外側に留まらず、内側へと入り込んでくる。しかもそれは劇的な形ではなく、気づかないうちにじわじわと広がっていく。

 思い出は、過去に属するものだと私たちは思っている。けれど、この作品はそれを静かに否定する。思い出は、現在の中で生き続け、場合によっては現在を書き換えてしまうものなのだと示してくる。

 それは、どこか抗いようのない運動のようにも見える。

 

閉じられないまま、残る

 読み終えたあとに残るのは、明確な結論ではない。むしろ、結論に至ることのない感覚そのものだ。物語は短く、出来事も多くは語られない。それでもなお、読み手の中に残る時間は長い。閉じたはずのページの外側で、なおも続いている何かがある。

 思い出とは、本当に終わるものなのか。あるいは、終わったと見なしているだけなのか。そうした問いが、はっきりとした形を持たないまま、読後に残り続ける。

 軽く読める作品でありながら、その軽さのままでは済まされない。読者の時間の中に入り込み、わずかにその輪郭を変えてしまう。

 そんな静かな力を持った一編だと思う。

 

 

 

112|『存在と時間』マルティン・ハイデガー|過去を変えたければ未来を決めろ

『存在と時間』マルティン・ハイデガー|岩波書店(岩波文庫)|2026.06.27 読了

「過去は変えることができない」

 時間とは不可逆であり、多くの人がそう思いながら生き、ぼくもまたそのようにして生きてきた。たくさんの水がぼくのもとを流れ、そこにはぼくの意思なんてものは微塵にも関係なく、多くのものをぼくから運び去っていった。でももし、「未来の選び方によって過去の意味が変わる」としたらどうだろうか。マルティン・ハイデガーの『存在と時間』は、そんな直感を根底から揺さぶってくる一冊だった。

 

 結論:人は“未来”から生きている

 この本の核心をぼくなりにまとめるとこうなる。人は「過去→現在→未来」の順で生きているのではなく、「未来(投企)→現在→過去」の順で意味づけながら生きている。ハイデガーはこれを「投企」と呼ぶ。

 つまり、「自分はこれからどう生きるのか」という選択が先にあり、その選択に沿って、過去の出来事が“意味づけ直される”という構造だ。

 

 先駆的覚悟性:不確実でも決めるという態度

 とはいえ未来は不確定だ。どんな選択も正解かどうかは分からない。それでもなお、自分の有限性(=いつか死ぬ存在)を引き受けた上で、未来に向かって決断する態度をハイデガーは「先駆的覚悟性」と呼んでいる。

 

 簡単に言えば、

  • 正解はない
  • でも選ばないと何も始まらない
  • だから引き受けて決める

 という、かなりシビアなスタンスである。

 

過去は「結果」ではなく「再編集されるもの」

 ここが一番おもしろいところだ。通常、過去は「変えられない事実の積み重ね」と考えられる。でもハイデガーの視点だと違う。過去は、「未来の選択によって意味づけられた出来事の集合」になる。

 例えば、

  • ただの失敗 → 起業を選んだ瞬間に「経験」に変わる
  • 無駄な遠回り → 振り返れば「必要なプロセス」になる

 つまり過去は固定されているようで、解釈は未来から書き換えられ続ける。この感覚は、単なる哲学というより、むしろ意思決定の実務に近い。

 

未来の残骸としての過去

 ここで一つのイメージが浮かぶ。過去とは、「実現しなかった未来」や「選ばれた未来」の痕跡の集積なのではないか、ということだ。

  • あの時あの選択をしなかった未来
  • 選び取った結果として残った現在

 そう考えると、過去はただの履歴ではなく、無数の“未来の残骸”の堆積のようにも見えてくる。

 

永劫回帰との接点

 この構造は、どこかニーチェの「永劫回帰」を思わせる。永劫回帰は、「この人生が無限に繰り返されるとして、それでも肯定できるか?」という問いだ。

 ハイデガー的に言い換えるなら、

  • 自分が選ぶ未来が
  • 過去を意味づけ
  • その連なりが人生になる

 のであれば、どんな未来を選び続けるのか=どんな過去を持つかという問いに近い。

 つまり、未来の選択がそのまま人生全体の肯定/否定につながる。

 

読む人を選ぶ本

 正直に言うと、『存在と時間』は読みやすい本ではない。むしろかなり厄介だ。

ただ、次のような人には強く刺さる。

  • 意思決定に迷っている人
  • 過去に引っ張られて動けない人
  • 事業やキャリアを「自分で選びたい」人

なぜならこの本は、「どう生きるかは、今から決めろ」と逃げ場なく突きつけてくるからだ。

 

まとめ:過去を変えたければ、未来を決めろ

 ハイデガーの思想を一言でまとめるなら、未来を選ぶことでしか、過去は変わらない。過去に意味がないのではない。意味は“後から与えられる”。

 だからこそ、

  • どんな未来を投企するのか
  • どこまで引き受けて決めるのか

 これがすべてになる。

 難解な哲学書ではあるが、実際にやっていることはシンプルだ。

「決めて生きろ」

 それだけだ。

 もし今、何かを決めきれずにいるなら、この本はその迷いを“消す”のではなく、「引き受けて進む覚悟」を与えてくる一冊になると思う。

 

 

 

111|『シュレディンガーの哲学する猫』竹内薫 竹内さなえ|知の深淵のほとりにて

『シュレディンガーの哲学する猫』竹内薫 竹内さなえ|中央公論社(中公文庫)|2026.04.30 読了

 昔、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』を読んで、衝撃をうけた。たしか、二十歳くらいの時である。そして、それからしばらくは永劫回帰について考え込むようになった。彼女と食事をしながらニーチェについて語って聞かせるようになってしまった時には、もう末期だなと思った。夜中に永劫回帰と言う考え方が恐ろしくなり、寝入りばなに叫んで飛び起きたこともあった。なかなか香ばしい青春時代であった。

 

 そんな知の深淵をぼくを導いてくれたのがニーチェであったわけだけれど、ごく一般の人間は真っ当に生きてきて、「あ、『ツァラトゥストラ』読みたいな」なんて突然思ったりはしないのである。そこにはきっかけというものがあって、ぼくは昔から本を読むのが好きだったから、哲学に至るまでの過程は本を読まない人たちと比べたらそれは容易いものであっただろうけれど、やはりきっかけというものは何事においても存在するのである。

 

 そして、ぼくを哲学へと導いたのがこの一冊である。

 

知の深淵のほとりにて

 『シュレディンガーの哲学する猫』は、「哲学とは何か」という問いに対して、学問的な厳密さよりもまず知的な面白さを伝えることに重点を置いた入門書である(みんな、シュレ猫は大好きだよね)。タイトルが示すように量子力学の有名な思考実験「シュレディンガーの猫」を入口にしながら、その射程は科学哲学にとどまらず、古代ギリシアから現代思想、さらには文学や人間存在の問題にまで及んでいる。

 

 本書の魅力は、哲学を特定の学派や専門分野として閉じるのではなく、「世界をどう理解するかを問い続ける営み」として広く捉えている点にある。読者はプラトンやデカルト、ニーチェといった哲学者たちの思想だけでなく、サン=テグジュペリのような文学者の作品を通しても哲学的思索に触れることになる。そのため、哲学史の知識を学ぶというより、哲学的な視点そのものを身につける読書体験となっている。

 

 また、語り口は軽快で親しみやすく、専門用語の多さによって読者を遠ざけることがない。哲学書にありがちな難解さを避けながらも、「現実とは何か」「私とは何か」「なぜ生きるのか」といった根源的な問いへ自然に導いてくれる。その意味で、本書は哲学の「入口」として非常に優れている。

 

 一方で、扱う範囲が広いぶん、一人ひとりの哲学者や思想についての解説は必然的に概観的になる。より深く理解したい読者にとっては、むしろ本書は出発点であり、そこから興味を持った哲学者の原典や専門書へ進むための案内役と考えるべきだろう。

 

 総じて、本書は「哲学を学ぶ本」というより、「哲学したくなる本」である。難解な理論を覚える前に、世界や自分自身について考えることの楽しさを伝えてくれる。哲学初心者はもちろん、かつて哲学に挫折した読者にも薦められる一冊である。特に、哲学と文学、科学を隔てずに知的探究の地平を広げたい人には格好の入門書と言える。

 

110|『杳子・妻隠』古井由吉|淫靡さを湛えた薄暗さ

『杳子・妻隠』古井由吉|新潮社(新潮文庫)|2026.04.21 読了

 大学時代に付き合っていた女の子がいた。それは後に妻になる人であったが、ぼくたちは遠距離恋愛だったからひと月かふた月に一度会うくらいのもので、付き合いながら生活を共にしたことがなかった。だけど、一度だけ彼女とある一定の期間をふたりだけで過ごしたことがあった。たしか、一週間くらいだったかと思う。

 

 その蜜月はあまりに静かなものであった。朝起きて食事をし、一緒にテレビを見て、それに飽きたら散歩に出かけ、時折、気の向くままにセックスをして、夜は抱き合って寝た。ただその繰り返しであり、あまりに穏やかで、なんの起伏もない時間の連鎖だったけれど、そこには何かしら永続的な薄暗さが付き纏っていた。そして、その影の中には、どこか艶のような淫靡さをたたえていた。

 

『杳子・妻隠』には、かつてぼくが過ごした時間と似たそういう薄暗さがあった。

 

淫靡さを湛えた薄暗さ

 杳子・妻隠は、読み進めるうちに「物語を追う」という通常の読書の姿勢が、ゆっくりと解体されていく作品である。出来事は確かにある。人物もいる。しかし、それらはくっきりと輪郭を持つ前に、どこかへ溶け出してしまう。読者は筋ではなく、揺らぎそのものに身を委ねることを求められる。

 

 古井由吉の文体は、まさにその揺らぎを体現している。物語は進んでいるはずなのに、どこか同じ場所をたゆたっているような感覚がある。語りは直線的に積み上がらず、微細な感覚の反復やずれによって、じわじわと深みに沈んでいく。そのリズムは、水面に映る影が風でかすかに歪むような、捉えがたい不安定さを帯びている。

 

 作品全体に漂うのは、はっきりとした闇ではなく、光が弱まったときに現れる「薄暗さ」だ。視界は閉ざされていないのに、何か決定的なものが見えない。その曖昧さが、人物の内面や関係性に微妙な陰影を与えている。そしてその陰影の奥に、言葉として露骨に現れることのない、しかし確かに感じられる「艶」が潜んでいる。

 

 ここでいう艶かしさは、露骨な描写によるものではない。むしろ逆だ。語られないこと、触れきらないこと、関係の輪郭が曖昧なまま差し出されることで、読者の側に想像の余白が生まれる。その余白が、かえって身体的な感覚に近い湿度を帯びて立ち上がってくる。触れそうで触れない距離感、その緊張が持続することで、作品全体にどこか淫靡な気配が滲む。

 

 正直に言えば、この作品は「分かりやすい」とは対極にある。明確な意味や結論を求める読み方では、途中で手応えを失うだろう。ただ、その不確かさをそのまま受け入れ、言葉の揺れや空白に注意を向けるとき、この作品は独特の密度をもって立ち上がる。

 

 読後に残るのは、何かを理解したという達成感ではない。むしろ、言葉にしきれない感触だけが、身体のどこかに沈殿している。その曖昧で、わずかに湿った感覚こそが、『杳子・妻隠』という作品の核なのだと思う。