BOOKWORM

本との出会いのこと、とか。

026|『心は孤独な狩人』カーソン・マッカラーズ|暗がりに差し込む光

2024.01.17 読了

少し前に読んだ本のことだけれど、思いがけない再会をしたので、少しそのことについて語ってみる。

 

本は繋がっている、というのがぼくの考えである。それは鎖のように繋がっていて、思いもかけないところで、思わぬ出会いに繋がったりもする。

 

この前、ひさしぶりに開高健の『オーパ!』を開いてみて、ふと目次に目を留めた。断章の章題を読み返してみると、それが海外文学のタイトルを引用されていることにふと気がつく。

 

神の小さな土地」はコールドウェル、「死はわが職業」はロベール、「タイム・マシン」はもちろんH・G・ウェルズ──『オーパ!』を初めて読んだのが小学生の時だったから、そんなこと気づくわけもないのだけれど、大人になってみてこういう発見があるのか、と嬉しくなった。

 

そして、『心は孤独な狩人』はカーソン・マッカラーズだ。『オーパ!』の章題では『心は淋しき狩人』となっている。マッカラーズは最近になってふらりと立ち寄った書店で、なんとなく手に取ったのが初めての出会いだ。それまではまったく知らない作家だった。

 

昔のぼくは読書家だと自負していたけれど、最近になってまったく本や作家のことを知らないことに愕然としている。それで今まで読みたかった本たち、読んでこなかった本たちをたくさん読んでやろうと思い、読書という趣味に戻ったのだけれど、この歳になって読書をしていると本当にまだまだ知らない本たちがたくさんあり、名作たちと出会うことができる。

 

カーソン・マッカラーズはひさしぶりに衝撃を受けた。若い頃はこれが最高だ、この本を超える作家なんていない、なんてよく言っていたけれど、傲慢であったことに気付かされる、もちろん、若い頃にそう評した本たちも素晴らしい本であるし、名作には変わりないのだけれど、まさか色々読んできたマッカラーズのような作家に出会えるとは思ってもみなかった。

 

結局、ぼくたち人間はどこまでいっても理解し合えない。そんな虚しさや淋しさを、まるで日差しの滲むような柔らかさで描き出す作家がいるなんて思ってもみなかった。こんなにもやさしく悲しい小説があるのか、と読み終わった後に大きく息をついた。どこにも救いなんてないように思えるのに、淡い光を飲み込んだかのように温かい読後感だった。

 

こういう本に出会えるのは幸運である。しかし、『オーパ!』を開いてその章題を見つけたとき、ぼくはもうずっと昔にその本に出会っていて、いつか読む運命として導かれたのかもしれないと思った。

 

 

025 |『パパ・ユーア クレイジー』ウィリアム・サローヤン|愛情に満ち溢れた世界

2024.05.20 読了

その昔、ぼくは父親だった。今となってはとても懐かしい。いい父親であったかどうかは別として、それでもぼくは彼の将来のことを必死に考え、何を彼にしてあげられるのか、必死に考えていた。しかし、とても残念なことにぼくたちはもう家族ではなく、今はただ血が繋がっているという事実だけが残っている。

 

たった数年間という親子の関係の中で、ぼくは彼にいったい何を残せただろうかと考えると、きっと何も残せなかったのではないかと思う。反面教師という意味では、あるいは残せたものもあるかもしれないけれど、それは彼自身が学んだことであり、ぼくが残したことではない。だから、かもしれない。この作品を読んで、ぼくはとても後悔した。

 

ウィリアム・サローヤンで有名な作品といえば、いま新潮社から出ている『ぼくの名はアラム』である。アラムは彼の息子アラム・サローヤンで、父親と同様に作家となっている。これはきっと父親の影響だろうというのは容易に想像できる。きっと、ウィリアム・サローヤンは息子にとって偉大な作家であったのだろう。

 

ちなみにサローヤンの奥さんは、『ティファニーで朝食を』のモデルになった女優のキャロル・グレイスで、彼らは離婚しているが、娘は女優になっている。この構図を見ると、サローヤンもキャロルもきっと本当に愛情を持って子どもたちに接しただろうということがわかる。

 

ことにこの作品『パパ・ユーア クレイジー』では、息子のアラムとのちょっとした日々が綴られているのだけれど、そこにはサローヤンの息子アラムに対する愛情で溢れている。

 

突拍子もない子どもの言動に付き合う親の行動もまた突拍子がなく、彼らの少し狂っていてあたたかい親密な世界がぼくにはとても羨ましかった。車でちょっとした旅に、ふたりで出かける場面はとてもいい。

 

小説のタイトルはきっと自分自身を皮肉ったものであるのだと思うけれど、こんなにも優しさに満ち溢れている世界の中でサローヤンが息子に伝える言葉は、とても大切なことであり、世界の本質に近づくものであった。

 

もっと早くにこの本に出会っていれば、とこの作品を読み終わって最初にぼくが感じたのは後悔だった。もっと早くにこの本と出会っていれば、ぼくはもっと上手く父親をやれていたのかもしれない、と。

 

ただただ愛情と優しさに溢れる世界の一片を切り取ったそんな作品だった。

 

 

 

024|『はなればなれに』ドロレス・ヒッチェンズ|埋もれた名作

2024.05.15 読了

犯罪というものには、あまり縁がない。というか、縁があったらあったで、それは前科者ということになってしまうので当然のことではある。もちろん、ぼくはたいていの人がそうであるように、これまでなんとか警察のお世話にはならずに済んでいる。

 

見た目は前科者か指名手配犯みたいだよね、なんて失礼なことをいう輩もいるけど、ぼくはこれまで他人に暴力を振るったこともないし、他人のものを盗んだこともない。あるとすれば何年か前に一時停止違反で捕まったくらいだ。つまり小悪党なのである。

 

しかし、この小説に出てくる奴らはちがう。もう、なんていうかどうしようもない奴らばかりなのだ。登場人物がほぼ全員悪党であり、犯罪に手を染めることをなんとも思っちゃいない。そこまでくるとここに出てくる奴らがマトモで、ぼくがマトモじゃないんじゃないか、なんて思えてくる。

 

ここまで来るとこいつらは憎めなくなってくる、なんていうようなこともない。どうしようもない奴らでまったく同情の余地なんてないし、本当に腹立たしくなってくる。短慮で、分別もなく、軽率な奴らなのだ。選択を誤り続け、誰の思い通りにもならない。

 

ただ、この作品はとにかく面白かった。クライムノベルというのか、こういう作品を読むのは初めてだったけれど、若者たちが大きな犯罪に手を染めていくヒリつくような緊張感がリアルに描かれている。人が犯罪に手を染めていく心理の描写がとにかく上手いのだ。それに加え、次々と視点が入れ替わる疾走感がたまらない。

 

ゴダールが映画化したというのも、なんとなく頷けるような終わり方で、ネタバレになるからもちろん結末は語らないけれど、展開からは予想できないような終わり方である。きっと、人によって好みは分かれるかもしれないけれど、ぼくにとってはこう終わらせたかというような驚きがあった。

 

ハヤカワなどで他の邦訳の作品もあるけれど、この作品は今回が初の邦訳で、こうやって知らない作家に出会える本当に嬉しくなる。ことにそれがとても面白い作品だとなおさらだ。これだから読書はやめられないと思わせてくれるような作品だった。

 

 

 

 

 

023|『こころ』夏目漱石|原点回帰

2024.05.11 読了

若い頃に夢を捨てきれなかったぼくは、いまだに「小説を書いてベストセラー作家になって・・・」なんていう妄想をたまにしてみたりもする。それでたまにペンを持つこともあるのだけれど、何を書いていいのかが最近めっきりわからなくなってきた。

 

それこそ昔はスラスラと物語が頭の中に浮かんできて、迷うことなくペンを走らせることができたのだけれど、あれやこれやとプロットを考えて、結局複雑にしてしまい、途中で物語も立ち消えてしまう。完全に老いである。

 

創作という熱が消えたわけではないけれど、多分もう若さという勢いは失われてしまったのだろう。残ったのは肥満気味の身体と酒に汚れた鈍い脳みそだけだ。実に残念なことだ。

 

それでいったい何を書けばいいのだろうと思いつつ、ふと目についたのが夏目漱石の『こころ』だった。まだ20代の頃はなるべく鬼籍に入っていない作家を読むように心がけていたから、漱石は『三四郎』を読んだくらいのものでほとんどぼくの読書体験に関わってこなかった。

 

しかし、もう40という歳を目前にして、そろそろ名作と呼ばれた古典たちを手にとらなければと思いながら、他にも欲しい本たちに後ろ髪をひかれつつ、漱石の作品を何冊か購入した。それでさっそく『こころ』を読んだというわけだ。

 

後で知ったのだけれど、『こころ』は後期三部作の最後の作品だけど、漱石初心者(読書に初心者も上級者もないと思っているのであまり好きな表現ではない)にとっては最初に読むのが良いと書かれていたから、まあ、良かったのかもしれない。これできっとぼくも漱石中級者を名乗ることができるだろう。

 

まあ、それはさておき、『こころ』を読み終わっての感想としては、とても面白かったということだ。実は『三四郎』は大好きな作品で、何度も読み返しているのだけれど、漱石の文章というのは散文のお手本とでもいうのか、とても読みやすい。加えて、テーマがあまりにシンプルだということだ。

 

それでいながら展開の絶妙さやストーリーの奥行きが深く、物語とはこのようにあるべきだということを教えてくれるようだ。とくに『こころ』は、「人としてどうあるべきなのか?」ということを問いかけて、そこに答えのようなものは提示しない。こういうやり口も、文学という原点そのもののようである。

 

あまりにも有名な作品なので、あえてぼくが中身についてあれこれ言う必要はないと思うけれど、『こころ』を読み終えて、ふと思ったのがこれは若いうちに読んでおくべきだったということだ。

 

もし若い頃に漱石を読むことをしていたら、今頃はきっと文藝新人賞を受賞し、そのまま芥川賞にノミネートされて……なんてことはもちろんあるわけはないのだけれど、また違った物語の書き方を見つけられていたのかもしれない。

 

 

 

022|『一千一秒物語』稲垣足穂|タルホという宇宙

2024/05/06読了

多少偏りはあるけれど、これまでたくさんの本を読んできた。もちろん、ぼくなんかよりももっとたくさんの本を読んでいる人は大勢いるのでその数を競おうというのではない。ただ、たくさん読んできた本の中には、残念ながら記憶というその特性上において忘れ去られてしまったものもいるということを言うために、ぼくはたくさんの、と言ったまでだ。

 

読んだ本の数を競うようになってしまったら、それはとても淋しいことであるし、きっとぼくは読書をやめているだろう。それに本を読まなくても生きていける人間はいて、彼らは彼らなりの文脈を用いて生きることができる。それはとても素晴らしいことである。

 

ところで、その忘れ去れてしまった本の中にこの『一千一秒物語』も含まれている。稲垣足穂は昔から読みたくて読みたくて、それでも後回しにしてしまった本だ(そういう本ってあるよね?)。

 

最近はAmazonなんかで軽率に本が買えてしまう時代だから、そんなわけでつい最近、ぼくも酔っ払った隙に(最近は酔っ払うとつい本を買ってしまう)この稲垣足穂のことを思い出して、買ってしまったわけだけれど、読み始めてみると記憶の彼方で閃くものがあった。

 

一千一秒物語』や、そのほかに所収されれている短編も、ぼくはどこかで読んでいた。残念ながらどこで読んだかなんて覚えていない。それはずいぶんと昔のことで、ぼくが今よりももっと幸せで何も知らない時分の頃だったと思う。読み進めながら、何かあたたかい気持ちになるのを感じさせられた。

 

そうやって本や文章の中に宿る記憶を、丁寧に取り出していくのも読書であると思う。作家は自己の内面に深く潜り、そこに広がる深淵に散らばるものをかき集めていく。そのなかに、もしかしたら重なるものがあったのかもしれない。だから、ぼくはアルコール依存症の私的な経験を描いた『弥勒』を読みながら、かすかな記憶から呼び起こされるほのあたたかい熱に触れたように、さまざまな懐かしい日々を思い出していた。

 

深く自己の内面に潜り込むことが芸術であると、作家は語っていた。そして、他者の言葉を借りながらも自己の文脈を用いて、自己の内面に潜り込んでいた。その陶酔がもたらすものは確かな芸術であり、作家の内部にはどうやら宇宙が広がっているようであった。

 

本を読まない人間は、自分の文脈で生きていけるとぼくは言った。しかし、膨大な量の本を読み、他者の言葉を借りながらも、自分の文脈を持てる人間はいる。そして、多元的に折り重なる価値観から一元的な宇宙を創り上げるのだ。稲垣足穂とはそういう作家だと思った。

 

 

021|『服従』ミシェル・ウエルベック|自由意志は存在するのか?

 

若い頃──まだ血の気が多かった頃、哲学に傾倒し、革命だとか思想だとか、宗教のこととか、そういう話を聞くのが好きだった。『ゲバラ日記』や『ドイツ・イデオロギー』、ボブ・マーリー新約聖書なんか、そういったものたちに進んで触れるようにしていた。そういう思想の上澄みたちを掬い取ることで、世界の真理に近づいたような気になっていた。

 

今は政治だとか宗教だとか、そういったものたちからはなるべく遠ざかるようにしている。それらはぼくの中にあるものではなく、ぼく以外の誰かに何かを託してどう生きるかっていう話になってしまうからだ。これは良し悪しの話ではなく、ぼくの好みの問題である。

 

だから、『服従』を読んで感じたのは、若い頃のぼくが読んだとしたら、とても好きな話だっただろうし、今のぼくにとってはとても苦手な話だと思った。これも小説の良し悪しではなく、ぼくの好みの問題である。

 

恋愛小説かと思いきや、政治的な筋立てがつらつらと書き連ね、なんでこんなくだらないことを書くのだろうかと思った。小説という表現の手段があるのであれば、もっと他に書くべきことがあるだろう、とさえ思ってしまった。しかし、それがミシェル・ウエルベック自身の思想や主義主張なのかといったらそうではなく、ただ小説的展開の道具にしているだけなのだ。

 

政治や宗教の話がなければ、この小説はただ直裁的な表現ばかりの下世話な恋愛小説に成り下がっていただろうと思う。そして、この筋立てに使われる政治と宗教は本質ではなく、自由意志を問うているのだ。もし、そこに本当に自由というものが存在するとしたら、不自由な選択をする自由の脆さをアイロニカルに描いている。自由とは個人の意思ではなく、この現代においてはただのメカニズムであり、本当の自由意志のもとにおける選択はないのだということを語りかけてくる。

 

カニズムにおける意志のない自由は絶望でしかない。そのことを描いた『服従』は世界に警鐘を鳴らしているのか、それとも嘲笑っているのだろうか。

020|『黒い本』ロレンス・ダレル|すべての小説よ、絶望せよ!

ロレンス・ダレルといえば、知っている人たちからすればまず『アレクサンドリア四重奏』を思い浮かべると思う。

 

ぼくも最初に買ったのは『アレクサンドリア四重奏』だった。まだ、結婚したばかりで貧乏だった頃(今も貧乏だけど)、奥さんに内緒で八重洲ブックセンターで買ったのだ。しかも4巻揃いで買ったものだから、ビジネスバックのような薄いカバンに入れて家に持ち込むには相当気を使った(速攻でバレたけど)。

 

というわけでそんな微笑ましい思い出と共にあるロレンス・ダレルだけれど、そんな思い出とは裏腹においそれと手出しできないような重い作家だ。

 

だから、『アレクサンドリア四重奏』を買ってからもなかなか読まずにいた。それでどうして『黒い本』につながるのかというと、4巻揃いの本よりもどんな作家なのか覗いてみたくて──そんな気持ちで手に取った。

 

結果から言って、この作家には軽い気持ちで手は出してはいけない作家だとわかった。冒頭からいきなり殴りかかってくるタイプの作家がいるけれど、ダレルもそうだ。いきなりぶっ叩いてくる。打ちのめされたというよりも、ほぼフルボッコに近かった。

 

正直、アレクサンドリア・カルテットを読んだ今だから言えるけれど、『黒い本』は正直アレクサンドリアカルテットより難解だ。ストーリーなんてないし、言ってみれば長大な散文詩だ。もし、これを小説だなんていうのであれば、ぼくたちは絶望するしかない。

 

「チョーサーよ、シェイクスピアよ、くたばるがいい!」とヘンリー・ミラーに言わしめたようにストーリーも構成もなく、散文だけでこんなにも深淵で、広大な表現をせしめるのであれば、本当に小説というものは絶望するしかない。

 

生半可な気持ちで開くことはできない。そんな本があってはいけないのかもしれない。文学が芸術たらしめるためには、ダレルのような作家が必要なのだと思う。