BOOKWORM

本との出会いのこと、とか。

006|『ナイン・ストーリーズ』J・D・サリンジャー|小説の完成形

実家を出てからも、同じ町内に、アパートを借りて住んでいた。

2DKのアパートで駅からは遠かったものの、部屋も広く、近くに大きな公園もあって、結婚したばかりで子どもも小さかったから十分な環境であった。

それに学生結婚でまともに稼げるような身分でもなかったから、駅が遠いなどといった文句は言えるわけもなかった。本当にお金がなくて、家具もまともに買えず、最低限、洗濯機と冷蔵庫はと思って買ったはいいものの、それでカードの枠がいっぱいになり、一時期はほとんど何もない部屋で、家族三人で身を寄せるようにして過ごしたのを覚えている。

そんな生活をしていたものだったから、好きな本も買えないだろうと、友人がよく本を貸してくれた。

彼は当時美大生で、アトリエがわりにアパートの部屋を借りていて、そこがぼくの住むアパートと目と鼻の先にあったのだ。とても穏やかな性格の男で、ぼくとは中学、高校の仲だったけれど、妻や子どもも彼によく懐いていて、よくアパートに遊びに来ていた。

その彼が『ナイン・ストーリーズ』を貸してくれた。これは面白いから読んでほしい、と口調は静かだったけれど熱がこもった調子でぼくに語ったのだ。

とくに「バナナフィッシュにうってつけの日」という短編が面白いから、と念を押すように言った。

ぼくはその時、たぶん、久生十蘭の短編か何かを読んでいたと思う。しかし、彼があまりにも興奮気味に語るから、じゃあ、久生十蘭は置いといて、次の日からさっそく読んでやろうと借り受け、テーブルの上に置いた。そして、あとは酒になった。それがいけなかった。

次の日、酒があまり抜けずに遅くに起き出すと、テーブルの上に置いてあったサリンジャーは見るも無惨な姿になっていた。本の表紙はボロボロにちぎれ、ページはくしゃくしゃになっていた。子どもがおもちゃにしてしまったのだ。妻が少し目を離したほんのいっときのことだった。

子どもはまだ言葉も話せない頃だったから、これは完全にぼくが悪かった。ぼくはすぐに彼に連絡して丁重に詫びた。しかし、彼は「子どもがしたことだし、いい思い出になるだろうから」と笑ってその本を譲ってくれた。

それから十数年の時間が経った。ぼくの手元にはその本はもうないし、妻とも別れ、彼とも十年以上会っていない。

読書から少し離れた時期に、それでもたまに書店を覗く習慣が体に染みついていて、たまたまそんな時に『ナイン・ストーリーズ』を手にして、ふとその時のことを思い出した。

 

小説の完成形

学生の頃、その友人とよく「完成された小説とは」なんていうことを酒を飲みながら話していた。実に面倒な奴らだったと思う。

そして、ぼくはいつも梶井基次郎の『檸檬』の名前を出した。初めて読んだ時の衝撃は今でも覚えているし、彼もそれについては同意見だった。

「なかなかあれを超える小説はないよね」なんて彼もニコニコ笑いながら言っていたのを思い出す。

だから、毎度そんな話をしたところで同じ結論をみるだけだったのだが、あるとき、ぼくたちが性懲りもなくそんな話をしていると、彼はやはり梶井基次郎の凄さに同意しつつも、「サリンジャーもすごいよね」といつもとは違うことを言い出した。

ナイン・ストーリーズって短編集があるんだけどね、『バナナフィッシュにうってつけの日』っていう短編、あれはすごかったよ。もうほとんど小説として完成しているんじゃないかな」

口調はいつも通り穏やかだったけれど、やけにが熱のこもった彼の言葉に、ぼくは、へえ、と興味を示しながらも、内心どこか嫉妬に似たような感情を持っていたと思う。

彼は美大の課題で忙しくしているくせに、ぼくなんかよりもずっとたくさんの本を読んでいて、いつもぼくの知らない情報を持ってくる。ぼくだって他人よりはたくさん本は読んでいるのに、と当時は勝手に自負していたから、そういう彼に劣等感を感じていたのだと思う。

だから、彼が読んでいるものはぼくも読まないわけにはいかなかった。常に同じ土俵にいたかったのだ。

そして、結局、彼から借りたサリンジャーはボロボロになって読めず、十数年経った今になってようやく買い直して読み終えたわけだけれど、ぼくは最初の短編から打ちのめされてしまった。

友人の彼が言っていた通りであった。

「バナナフィッシュにうってつけの日」──これはひとつの小説の完成形だと思った。なぜあの時すぐに買い直して読み、彼に感想を伝えなかったのか、それが妙に口惜しくもなった。

「訳もすごいよね。原題がさ、”A Perfect Day for Bananafish”っていうんだけど、これを”うってつけの日”って訳すところがまたたまらないよね」

読み終わってみて、ぼくはホッと息を吐きながら、楽しそうに語っていた彼のことを思い出し、あの楽しさだけしかなかった時代のことを思い出した。ぼくはもう小説の感想を伝える相手もいない、そんなつまらない大人になってしまった。

ぼくも彼も若かった。だからこそ、「小説の完成形」などという迂闊な言葉を、憚りもなく口に出せたのかもしれない。そして、何度でもいうが本当に楽しかったのだ。

だからこそ、もうそんな取り返しのつかない時間の先で、ぼくはあえてこの作品のことを「小説の完成形」であると言ってみる。

小説の楽しさをあらためて思い出させてくる、そんな作品だった。