昔、地面に寝転びながら、星のない夜空を眺めて「明日、世界が滅んじまえばいいのに」と呟いた友だちがいた。ぼくもその横に寝転んでいて、「そうだ、こんなくだらない世界はなくなっちまえばいいんだ」と同意した。
昔、「世界なんてくだらない、みんな誰かのことを気に掛けるふりをして自分のことしか考えていない」とそんな風に言った恋人がいた。彼女はとても純粋であり、自由に振る舞おうとしていたが、彼女にとってこの世界はあまりに汚れすぎていた。
あの頃、世界は若かったぼくたちにとって、とても生きづらい場所だった。
だから、あの頃、ヘンリ・ミラーに出会えていたらよかったのだけれど、当時のぼくはまだ世界を信じていた。世界は美しいものであると信じていたのだ。いや、それはちょっと言い方が違う、世界が正しいものであると信じていたのだ。
世界に正しさなんてない、欺瞞も汚濁も何もかも飲み込んで、そこに意味もなく成り立つだけのものである。意味をつけるのはそこに生きる人間たちなのだ。だから、くだらないくもあるし、猥雑で卑猥なのだ。ミラーはそうやって正しく世界を映し出そうとしていた。
『北回帰線』では道筋を消し、構成などもなく、卑猥な表現によって、世界を切り取ろうとした。いや、彼の中にある世界を映し出そうとした。しかし、この『南回帰線』では多少道筋のある物語に近づきつづも、構成などというものはおよそなく、イメージの断片をごちゃ混ぜにしながら、自身の半生を書き綴っている。
ただ、印象的なのは、彼が決して世界を美しいものではないと言っているわけではないということ。猥雑で卑猥な表現で世界を描きながらも、彼はそこに一片の美しさを行間の中に押し込めている。だからこそ、くだらなく欺瞞にみちた世界を映し出したその最後に、読者に「忘れられない人がいるだろう」と呼びかけるのだ。
最後に彼は忘れられない女性と過ごした時間のことを綴っている。そこには汚濁も汚辱もなく、ただただ美しいと思った。読み手もきっとそこで大事な人たちとの時間を思い出すはずである。薄暗く、瑞々しく透明で、澄み切った夜気の中にいるような時間が舞い降りてくる。
「明日、世界が滅んじまえばいいのに」と呟いた友といた時間、あれはぼくにとってとても美しい時間だったのだ。「世界なんてくだらない」と呟いた恋人と共に夜明けを待った時間は、ぼくにとってとても美しい時間だったのだ。
世界は欺瞞にみちて、とてもくだらない場所なのかもしれないけれど、それでもやっぱり美しいと思わせてくれるそんな一冊だった。