昔、取り返しのつかない過ちを犯したことがある。その時は大したことはないと思っていた。ぼくの人生において、それは軽微なことでどこかで軌道修正して、また元の時間の中へ戻ることができると、かんたんに考えていた。しかし、その時間にある種の区切りがついて終わりが来たとき、ぼくはたくさんの人間たちの人生を狂わしてしまったことに気がついた。取り返しのつかないことをしてしまったと、その時になって初めて気づいた。
サガンを読んでいて、その時のことを思い出していた。サガンは初めて読む作家だ。『悲しみよ こんにちは』は手にとったのは、他に何を読んでいいのかわからなくなったからだ。本を買うときはだいたいパッと書店に入って、パッと書棚から抜き出して、パッとレジに持っていくのだけれど、ある日、書店に入って、何も欲しい本がわからなくなる時があった。それでさんざん書棚の前を行ったり来たりした挙句、『悲しみよ こんにちは』と『ブラームスはお好き』を手にとった。
『悲しみよ こんにちは』はすぐに通勤の電車ですぐに読み終わった。読む前は、切なくて純粋な恋愛小説だろうくらいに思っていた。ポール・エリュアールの詩からとられたタイトルだけを見れば、なんとなくそんな感じの小説なんだろうと勝手に決めつけていた。しかし、ちがった。父親の浮気から始まる物語は、人間の汚さと愚かしさが垣間見ることができる。そして、主人公のセシルもまた父親と新しい恋人の仲を引き裂くために、周りを利用するわけだけれど、その姿勢も普通の感覚であれば到底受け入れざるをえない。
言ってみれば、そこには人間の本質が描かれている。自分勝手で、欲深くて、救いようのない人間たちの姿を、サガンは透明で丁寧な筆致で描いている。とくに感情の機微は思わず頷いてしまうような描写があり、なぜこんな重たいテーマをこんなに爽やかに描くことができるのだろうと舌を巻いた。
しかし、愚かしくて、救いがなくて、その先に取り返しのつかない悲しみがあり、それが人生であるというのではなく、サガンはその一歩先をどう生きていくのかを描こうとしていたのではないかと思う。そこには希望はないかもしれないけれど、その先を描かないことで一縷の希望を残したのかもしれない。
だから、サガンはずっとぼくのことを待ってくれていたのかもしれない。ぼくがもし若い頃、とりわけまだ人生というものをまだ信じていた頃であれば、ただの社交界の浮気話くらいにしか思わなかったかもしれない。取り返しのつかない過ちの先であればこそ、この作品に希望を見出すことができたのだろうと思う。
この作品はサガンが18歳の時に書いたものであるが、きっと彼女がその年でなければ書けなかった作品だと思う。大体においてこういうセンセーショナルな作品が生まれると、大衆は「実体験なのか?」という下世話な質問をするのだけれど、それに対しサガンは「幸いなことにそういう経験はなかった」と答えている。
だとしたら、本当に彼女は素晴らしい作家だと思っている。あまりに面白かったので、『ブラームスはお好き』もすぐに読んだくらいだ。