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本との出会いのこと、とか。

022|自由意志は存在するのか?/『服従』ミシェル・ウエルベック

 

若い頃──まだ血の気が多かった頃、哲学に傾倒し、革命だとか思想だとか、宗教のこととか、そういう話を聞くのが好きだった。『ゲバラ日記』や『ドイツ・イデオロギー』、ボブ・マーリー新約聖書なんか、そういったものたちに進んで触れるようにしていた。そういう思想の上澄みたちを掬い取ることで、世界の真理に近づいたような気になっていた。

 

今は政治だとか宗教だとか、そういったものたちからはなるべく遠ざかるようにしている。それらはぼくの中にあるものではなく、ぼく以外の誰かに何かを託してどう生きるかっていう話になってしまうからだ。これは良し悪しの話ではなく、ぼくの好みの問題である。

 

だから、『服従』を読んで感じたのは、若い頃のぼくが読んだとしたら、とても好きな話だっただろうし、今のぼくにとってはとても苦手な話だと思った。これも小説の良し悪しではなく、ぼくの好みの問題である。

 

恋愛小説かと思いきや、政治的な筋立てがつらつらと書き連ね、なんでこんなくだらないことを書くのだろうかと思った。小説という表現の手段があるのであれば、もっと他に書くべきことがあるだろう、とさえ思ってしまった。しかし、それがミシェル・ウエルベック自身の思想や主義主張なのかといったらそうではなく、ただ小説的展開の道具にしているだけなのだ。

 

政治や宗教の話がなければ、この小説はただ直裁的な表現ばかりの下世話な恋愛小説に成り下がっていただろうと思う。そして、この筋立てに使われる政治と宗教は本質ではなく、自由意志を問うているのだ。もし、そこに本当に自由というものが存在するとしたら、不自由な選択をする自由の脆さをアイロニカルに描いている。自由とは個人の意思ではなく、この現代においてはただのメカニズムであり、本当の自由意志のもとにおける選択はないのだということを語りかけてくる。

 

カニズムにおける意志のない自由は絶望でしかない。そのことを描いた『服従』は世界に警鐘を鳴らしているのか、それとも嘲笑っているのだろうか。