BOOKWORM

本は鎖のようにつながっている。そんな”ぼく”の読書体験とちょっとした感想、とか。

020|たとえその恋が祝福されなかったとしても/『玉藻の前』岡本綺堂

今まで恋をして後悔をしたことがあっただろうか。──

うん、なかなか気持ち悪い書き出しだ。ぼくが今、10代や20代であればまだ許されるような書き出しだけど、残念ながらぼくはもう40代手前であり、バツイチ独り身を謳歌し、もうあとは枯れ果てるだけというところまで来てしまった。そんな男がふいに恋を語るというのは、すこぶる気持ち悪いことだとぼくは思う。

でも、まあ、40年近く生きてきたからこそ、それなりに恋もしてきたし、けっこう波乱に満ちた恋路もあったわけだ。そして、後悔を語ることができるのも中年の役割なのだ。

残念ながら、ぼくの恋路は後悔の連続だった。あの時、ああしていれば、こうしていれば、なんていうことはぼくの常であった。しかし、それは不可逆な時間の中では当たり前のことであり、そのひとつひとつの気持ちに後悔があったかといえば、ぼくは恋をしたことに後悔したことはない。たとえ、それが人生を狂わせるような恋であったとしても、だ。

うん、やっぱり気持ち悪いな。しかし、ぼくはあの時、ひとりの女性に恋をして、彼女が消えてしまった今でもぼくは彼女に恋にしている。だからこそ、ぼくはこの作品に惹かれてしまったのかもしれない。

金毛白面九尾の狐、というと最近ではアニメのキャラクターにもなっているから、とても有名だと思う。しかし、ぼくたちの世代だと『うしおととら』のほうがなじみがある。一瞬で島ひとつ吹っ飛ばすあの絶対的なボスキャラだ(マジで凶悪なやつだった)。

その金毛白面九尾の狐が封印されていると石が栃木県の那須湯本にある。殺生石だ。平安時代末期、九尾の狐は玉藻前という美女に姿を変え、時の上皇の寵愛を受けたが、あの陰陽師安倍晴明の子孫である安倍泰成に正体を見破られて関東に逃れ、なんやかんやあって殺生石に封じられたという伝説だ。

岡本綺堂の『玉藻の前』はその伝説を下敷きにした若い陰陽師との悲恋の物語である。15歳の少年・千枝松と14歳の少女・藻(みくず)は幼なじみであり、互いに将来を誓い合うような仲であったが、ある日を境に藻は人が変わったようになり、貴族の屋敷に召し抱えられてしまう。千枝松は藻が自分のもとを去ってしまった虚しさから自らの命を断とうとするが、それを救ったのが陰陽師・安倍泰親だった。

もしも、彼女が絶対的な悪であり、それが自分という存在と相容れないものであれば、男はそこまで苦しみはしなかっただろう。しかし、絶対的な悪というものが存在しないし、男は彼女のことを知ってしまっていた。もちろん、これは物語の話である。

そして、彼女は男に言うのだ。お前だけなのだ、と。その言葉の真意は、二人のあいだに培われた時間の中でしか分かり合えないのだ。だから、たとえ、それが自分の身を滅ぼすとしても、すべてのものを敵に回すとしても、その恋に堕ちていってしまうのだ。

最後に彼らが交わす言葉が胸を打つ。しかし、千枝松は後悔しただろうか、と考えてしまう。たとえ、それが決して報われるものがないとしても、ふたりの恋がどうか永劫に続いていくことを願ってやまない。