ロレンス・ダレルといえば、知っている人たちからすれば『アレクサンドリア四重奏』を思い浮かべると思う。ぼくも最初に買ったのは『アレクサンドリア四重奏』だった。まだ結婚したばかりでひどく貧乏をしていた。だから、単行本を4冊揃いで買うなんて、ひどく気後れがした。それに当時仕事で使っていたブリーフバッグに入れて、妻に内緒で家に持ち込むには相当気を遣った(速攻でバレたけど)。
今だって金はないけれど、独り身で欲しい本は好きな時に買えるから、気を遣いながら本を買っていた頃がとても懐かしい。まるでひだまりの中にあるようなあたたかい思い出だ。しかし、ロレンス・ダレルはそんな思い出とは裏腹に、おいそれと手出しできるような作家ではない。
しかも4冊揃いである。だから『アレクサンドリア四重奏』を買ってからもなかなか読めずにいた。しかし、ある日、八重洲ブックセンターでいつも通り本を漁っていると、中公文庫で『黒い本』が出ているのを見つけた。アレクサンドリア・カルテットを読む前の準備運動になるかも──そんな気持ちで手に取った。
しかし、その本は準備運動なんていう軽い代物ではなかった。正直、文庫本1冊だから、と甘く見ていたが、読み始めてすぐに後悔した。ストーリーなんてなく難解で、言ってみれば長大な散文詩だ。もし、これを小説だなんていうのであれば、ぼくたちは絶望するしかない。
それでも当時のぼくは、その『黒い本』を夢中で読んだ。ダレルの選ぶ言葉には、人を夢中にさせる何かがある。きっとそれは人生において正の方向に作用するようなものではない。言ってみれば毒なのだ。”文学”という猛毒であった。
いや、「チョーサーよ、シェイクスピアよ、くたばるがいい!」とヘンリー・ミラーに言わしめたように、これは文学という枠にすら収まらないのかもしれない。
「幕間狂言を。では、始めよう。」
このように冒頭からいきなり殴りかかってきて、
「今日という日を、ぼくはこの物語を始める日にえらんだ。なぜなら今日、ぼくたちは死者にまじって死んでおり──これは死者への論争、生者への記録だからだ」
このようなイメージの断片たちが連続する。
イメージの断片だけでこんなにも深淵で、広大な表現をせしめるのであれば、小説というものは本当に絶望するしかない。”文学”とは万人に開かれていなければならないものだとぼくは思う。そういった意味ではこのような難解な作品はあってはならないのかもしれない。しかし、『黒い本』を開くたびに、ぼくは”文学”という可能性を感じてならない。