BOOKWORM

本との出会いのこと、とか。

023|タルホという宇宙/『一千一秒物語』稲垣足穂

2024/05/06読了

多少偏りはあるけれど、これまでたくさんの本を読んできた。もちろん、ぼくなんかよりももっとたくさんの本を読んでいる人は大勢いるのでその数を競おうというのではない。ただ、たくさん読んできた本の中には、残念ながら記憶というその特性上において忘れ去られてしまったものもいるということを言うために、ぼくはたくさんの、と言ったまでだ。

 

読んだ本の数を競うようになってしまったら、それはとても淋しいことであるし、きっとぼくは読書をやめているだろう。それに本を読まなくても生きていける人間はいて、彼らは彼らなりの文脈を用いて生きることができる。それはとても素晴らしいことである。

 

ところで、その忘れ去れてしまった本の中にこの『一千一秒物語』も含まれている。稲垣足穂は昔から読みたくて読みたくて、それでも後回しにしてしまった本だ(そういう本ってあるよね?)。

 

最近はAmazonなんかで軽率に本が買えてしまう時代だから、そんなわけでつい最近、ぼくも酔っ払った隙に(最近は酔っ払うとつい本を買ってしまう)この稲垣足穂のことを思い出して、買ってしまったわけだけれど、読み始めてみると記憶の彼方で閃くものがあった。

 

一千一秒物語』や、そのほかに所収されれている短編も、ぼくはどこかで読んでいた。残念ながらどこで読んだかなんて覚えていない。それはずいぶんと昔のことで、ぼくが今よりももっと幸せで何も知らない時分の頃だったと思う。読み進めながら、何かあたたかい気持ちになるのを感じさせられた。

 

そうやって本や文章の中に宿る記憶を、丁寧に取り出していくのも読書であると思う。作家は自己の内面に深く潜り、そこに広がる深淵に散らばるものをかき集めていく。そのなかに、もしかしたら重なるものがあったのかもしれない。だから、ぼくはアルコール依存症の私的な経験を描いた『弥勒』を読みながら、かすかな記憶から呼び起こされるほのあたたかい熱に触れたように、さまざまな懐かしい日々を思い出していた。

 

深く自己の内面に潜り込むことが芸術であると、作家は語っていた。そして、他者の言葉を借りながらも自己の文脈を用いて、自己の内面に潜り込んでいた。その陶酔がもたらすものは確かな芸術であり、作家の内部にはどうやら宇宙が広がっているようであった。

 

本を読まない人間は、自分の文脈で生きていけるとぼくは言った。しかし、膨大な量の本を読み、他者の言葉を借りながらも、自分の文脈を持てる人間はいる。そして、多元的に折り重なる価値観から一元的な宇宙を創り上げるのだ。稲垣足穂とはそういう作家だと思った。