21歳の時、当時付き合っていた恋人から子どもができたことを知らされた。
その時、ぼくはまだ大学生で、あまり真面目に通っていたわけでもないから留年も決まっていた。そんな折のことだったので、当然周囲からはあまり祝福はされなかった。子どもを堕ろせ、なんて言ってくる人間たちもいた。結果として、ぼくは次の年、大学4年になって彼女と入籍し、子どもは無事に産まれてきたわけだけれど、それでも周囲はぼくたちに白い目を向け続けた。
だから、ぼくはぼくに良からぬ感情を向けてくる関わりに心を通わせることをやめた。拒絶したわけではない。ある一定の距離を取り始めたのだ。村上春樹の『風の歌を聴け』の中で、デレク・ハートフィールドが言っているように「必要なのは感性ではなく、ものさしなのだ」。
そうして、ぼくはそれからの20年近い時間の中で、周囲を取り巻くさまざまな事物との距離を測り始めた。おかげでたくさんの人間たちがぼくから離れていった。妻でさえもぼくから離れていってしまった。仕方のないことだ。ぼくは測り方を間違えてしまったのだ。
それでもぼくはこの生き方を後悔なんてしたことはなかったし、まあ、行きずりのような人生でも楽しく生きている。別のことをもってして相変わらず周囲から冷たい目を向けられることもあるけれど、ぼくは今楽しいのだ。
気分が良くて何が悪い?
生と死との距離
そんな風に村上春樹を読み始めたのは、『風の歌を聴け』によるところが大きいのだけれど、この本を手に取るきっかけを与えてくれたのが『ノルウェイの森』だった。
ぼくが『ノルウェイの森』を手にしたのは高校生の時だったから、それこそもう20年以上前のことだ。それから何度も読み返しているけれど、最初はどうせベストセラーの甘ったるい恋愛小説だろうなんて思っていた。幼さゆえの尖った感性というのか、当時のぼくにはそういうところがあったのだ。
まあ、それはいいとして、『ノルウェイの森』の話だけれど、最初に手に取った瞬間は今でも覚えている。劇的な瞬間や天啓のようなものがあったわけでもなく、それなのに、なぜかその一瞬をしっかりと記憶している。
ある暇な日曜日の午後だった。何か読む本はないかと本棚を漁っていて、誰が買ったのかわからない『ノルウェイの森』の単行本を手に取ったのだ。
──多くの祭り(フエト)のために
フィッツジェラルドを意識して書かれたあの扉の献辞に、当時はわからなかったけれど、なんだか格好いいなと思った。そうして、あとは夢中になって読んだ。
人が狂っていくということ、どことも知れぬ大きな穴の中へ落ちていく人間の様を初めてそこに見た気がした。人が壊れていくということは、あまりにも美しかったし、あまりも悲しく恐ろしかった。そうして、喪失ということをぼくは初めて知った気がした。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している
そのことを『ノルウェイの森』では、冒頭でこのように語っている。ゴシック体でわざわざ強調することにどういった意味があるのかなんて、そんなものは作者にしかわからない。
しかし、もし、ハートフィールドのようにあらゆる事物をものさしで測り続けていたのだとしたら、それが著者にとっての生と死との距離だったのではないだろうかなんて思ってしまう。そうして、ぼくにとってもだ。
この小説を読むことで、若かったぼくは傍にいた大切な人のことを思ったし、色々なものが通り過ぎてしまった今となってはかつて大切だった不在のものたちを思い出す。
「喪失」を意識しなければ大切な人たちのこと思い出すことができないというのは、とても淋しいことではあるけれど、その淋しさがとても心地よい。そんな小説だ。