BOOKWORM

本は鎖のようにつながっている。そんな”ぼく”の読書体験とちょっとした感想、とか。

016|誰でもない男/『海底二万里』ジュール・ヴェルヌ

離婚をした時、いちばん最初に思ったのは、まあ、こんなもんだろうと思った。

ぼくはぼく自身の時間に対してあまり期待なんてしてこなかったし、それは今でも変わることはない。だから、そういうネガティブなライフイベントも、まあ、こんなもんだろうと思った。

人並みに家族を持って、休日には家族サービスをして、妻の誕生日にはサプライズをしたり、子どもと2人でキャッチボールをしたり、新築の家を買ったり、そういうなんの影も落とさないような幸福な時間は、ぼくにとっては過分だった。

それは結婚した時からずっとぼくの後ろに影のように付き纏っていたような気持ちだった。だから、家族としての最後の時間を過ごした夜、家を出る時、車のエンジンをかけながら、かつての居場所へと戻っていくだけだと自分に言い聞かせた。ぼくはもう何者でもないのだ、と。そうだ、ぼくはずっと幸せなだけだったのだ、と。

しかし、だからと言って、それまでの時間に落差を感じないほど唐変木でもなかった。生まれ育った家に帰ってきて、もうかつての家族たちも散り散りになった家で、ひとりになってしまった休日の時間をどうして過ごそうか、窓際の陽だまりの中で考えている時に、ふと前の家から持ってきた文庫本を手に取った。

引っ越しの時の慣例で、ぼくは引っ越すときに何冊かの本を決めて持っていくようにしているのだけれど、なぜ、その本が入っていたのかはわからなかった。なんの馴染みも思い入れもない本だった。それが『海底二万里』だった。

 

誰でもない男

誰とも言葉を交わすことなく過ぎ去っていく静かな休日に、その冒険譚はぼくの心を湧き立たせた。遥かな海洋の旅路は色とりどりで、モノクロの挿絵さえも華やかなものに見えた。

海底二万里』と言えば、ノーチラス号であり、ネモ船長である。多分、世界で最も有名な潜水艦とその船長かもしれない。ディズニーが好きな人であれば知っている人もいるだろうし、最近ではゲームなんかでも登場する。

そういえば、昔、とあるお店に勤めていて、スタッフの若い女の子たちがスマホゲームの『Fate Grand Order』にハマっていて、ぼくも勧められてやったことがある。そのゲームにもキャラクターとしてネモ船長が出てきていた。

ぼくはこれまでそういう冒険小説は、同じ作家の『十五少年漂流記』しか読んだことがなかったから、そういう感覚で読んだのけれど、本当に同じ作家が書いたものであるのかと疑うほどに、内容は遥かに濃密だった。

19世紀という科学の黎明期に、なぜこれほどのことが書けたのだろうかと思えるくらいにノーチラス号の機能の描写は緻密であり、潜水艦自体がまだ歴史に登場していないこの時代にこの作品を書いたのだから、ヴェルヌの想像力がいかにとんでもないものかがわかる。それに海洋生物に対する知識の豊富さも圧倒的だ。ここまで圧倒的だと読者は置いてけぼりにならず、感嘆しながらも、次はどうなるだろうと物語に引き込まれるだろう。

当時はきっと海の中というのは未開の地であっただろうから、その冒険譚は当時の人々の好奇心を大いに刺激しただろうと思った。

そして、ネモ船長だ。生い立ちなども秘匿され、謎の多い人物である。紳士であり、冷静で、それでいながらその実、激情家で俗物的な一面もある。彼の正体はヴェルヌの別の作品『神秘の島』で明かされることになるのけれど、この作品ではその正体は明かされないまま、物語は終わる。終わるというの表現がはたして正しいのかどうかはわからないけれど。

彼の旅路はまだ続いている。そんな遥かな時間にぼくは思いを馳せながら、この”誰でもない”という意味を持つネモという男を思った。孤独であり、孤高であるこの男はあまりにも格好良すぎた。この男のように、何もかもを捨て去り、自分の中にある目的のためだけに生きることができたら、と何者でもなくなったぼくは思った。

それでも本を閉じたぼくの前には、茫漠とした時間が広がっていて、ぼくに生きることを求めていた。

きっとできるさ、とぼくはひとりぼっちのがらんとした部屋の中でそう思った。少しだけ勇気をもらった。そのすぐ傍では春が終わろうとしていた。