<内容>
高校2年生の朔太郎と、恋人のアキ。アキの死から、物語は始まる。ふたりの出会い、無人島への旅、そしてアキの発病、入院……。最愛の人を失うとは、どういうことなのか。
高校生の時、作家になりたいと思った。
昔から読書が好きで作家になりたいと思ったわけでもなく、急に天啓が降りてきて作家になりなさいというお告げがあったわけでもなく、本を読んでいるうちに「小説を書いてみたい」と思うようになったのだ。
そのきっかけとなった本がある。片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』だ。
高校生の頃、母親が何を思ったのか、ふいに買ってきて、「あんた、小説でも書いてみたら」と渡してきたのだ。ちょくちょく本は読んでいたけれど、「小説を書いてみる」なんてことは思ってもみなかった。たぶん、勉強もしないでいつも寝てばかりいたぼくを見かねてのことだったのだろう。
さすがにベストセラーになるだけではある。後に映画化もされて、社会現象になるほどであったから、とても面白い本だと思った。
これは母親の大きな間違いであった。何せ、その時、ぼくは受験生だったのだ。なるほど、ベストセラーになる本はこういう本なのか、とぼくは毛ほどはしていた受験勉強の時間も割いて、本を読むようになり、残念ながら志望校は全滅し、どうしようもないような私大の経済学部へと滑り込んだ。まったくもって残念なことである。
まあ、それはそれとして『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んだことは、ぼくの転機であったとは思う。
生の輝き
この小説がヒットしてから、何につけ、やたらと長いタイトルの作品が目につくようになった。ただ、それまではそういうタイトルの付け方はなかったから、こういうのもありなんだという、創作に対する幅が大きく広がったようには思う。
ぼくも当時書いていた小説──とても披瀝できるものではないけれど──そういう長いタイトルばかりつけていた。
そして、やはりヒロインの死というのは、どうしたって多くの人々の心を掴む。たとえば、『いちご同盟』のように、あるいは『ノルウェイの森』、もっと遡ればジッドの『狭き門』もそうだ。それはずっと繰り返されてきたことだし、死はぼくたち生きるものにとって、傍観することしかできない大きなテーマなのだ。
ともするとそこに比較が生まれるし、そこに意味の深度の推しはかりあいのようなことが始まってくる。そうすると作品が意図されない意味を帯びてきてしまう。
この作品の芯というのか、物語が描かれたがっていたところというのか、そこは恋人の死という部分ではなく、純愛であるということ、とくにキスシーンにあるのではないかと思っている。
枯葉の匂いがするファーストキス、うがい薬味のするキス──こんなにも印象的なキスシーンはちょっと他にはないと思う。これらのシーンのために、プロットだとか、背景や設定なんていうものが持ち出されたものだとしたら、この作品はやはりこの作品になるべくしてなったのだと思う。
生と死──その一瞬の重なりの象徴のようなものとしては、あるいは生の一瞬のきらめきのようなものとして、切り取られたそれらのキスはあまりにも悲しくて淋しい。
──キスでもしませんか?
ヒロインの亜紀のそんなセリフにもドキッとさせられてしまう。
死とはなにか?──そのテーマの中に生の輝きを確かに見せてくれる作品だと思う。