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日々夏休みのノリで読書感想文を書いています。

049|『ユルスナールの靴』須賀敦子|稀有の人

2024.09.05 読了

二十五歳になった時、襟付きの服しか着ないと決めた。それが大人になることだと思ったからだ。それまではオーバーサイズのディッキーズにティンバーランドのイエローブーツ、プロクラブのTシャツニューエラのキャップというのがぼくの正装だったけれど、二十五歳というのがぼくにとって大人の分岐点であるように考えていたので、それらを一切捨て去り、休みの日でもレザーシューズを履くような大人になりたいと思い、襟付きのシャツしか着ないと決めた。

 

とても残念だ。そんなことで大人になれると思っていたぼくがではない。今のぼくが、という話。残念だが、今のぼくはリーバイスの560をオーバーサイズで履き、キャンバーのでかいTシャツを着て、そしてあの頃と同じようにニューエラを被るような中年になってしまった。足元はエアフォースワン。襟付きの服? そんなもんはクソ喰らえだ。

 

原点回帰だ。最近、フォートマイナーの最初にして最後のアルバムのLPが再販していたので、真っ先に買ったし、リンプビズキットやビースティーボーイズを今になっても聴いている。色々あって戻ってきたのだ、原点に。

 

そして、その頃、文筆家を目指していたぼくにとって、最も敬愛していたのが開高健須賀敦子だった。当時決して安くはない全集を買い揃え、その時奥さだった人に怒られたのはいい思い出である。そういえば襟付きの服を決めようと思ったのは、彼女のためだったように思う。ぼくも家庭を持ったのだから大人にならなければいけない、と。

 

その時のことを懐かしく思い出しながら、『ユルスナールの靴』を手にとった。全集で読んだ時もいちばん印象に残るエッセイだった。あの頃も今も、先に書いたような風貌であるぼくが須賀敦子だなんてなかなか似合わないけれど、好きなものは好きなのだからしょうがない。

 

須賀敦子は決して作家というわけではない。文筆家といえばいちばんわかりやすいのかもしれないが、彼女にとって創作を夢見て、ただ最後まで創作に行き着くことはできなかった『こうちゃん』という唯一の作品はあるが、作家を名乗ることはできなかった)。彼女は言葉で物語を書く人ではなく、随筆、エッセイを読めばわかると思うけれど、人生で物語を作り上げる人であった。

 

しかし、言葉でなく、と言いはしたが彼女の操る言葉は、あまりにも明晰で、唯一無二の文章を書く人でもある。文章の解像度は高く、そこにある光すらもありのままに捉えられるようであり、そうかと思えば詩的な情緒も置き去りにはしてこない。言葉を愛した人であった。そのように思う。

 

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。

 

ユルスナールの靴』がぼくにとって最も印象に残った理由はこれである。この冒頭からやられる。ユルスナールというのはマルグリット・ユルスナールのことだ。あまり日本では知られていない作家であり、白水社からもちょこちょこ邦訳は出ているが、ぼくも須賀敦子のエッセイで彼女のことを知った。

 

とても特異な作家であると思う。というのはぼくはユルスナールの作品はまだ読んだことはないが、須賀敦子のエッセイを読んでいる限りでは、本当に特異な人生を生きて、その影響が作品にも現れている。

 

須賀敦子はそんな彼女のことを書くにあたり、本の後ろについているような解説のような仕事は決してせずにあの書き出しから始めるあたりがもう須賀敦子という人物がどれほどまでに言葉を愛したかがうかがえる。そして、その特異な作家の人生を、自分の人生に映じて彼女はこのエッセイを書き上げている。それができるのもまた特異であり、彼女は稀有の人であった。

 

大きめのスニーカーを履くことを教えられて人生を悉く彷徨うぼくは、まだ自分にぴったりの靴を見つけられないでいるのだろうか。須賀敦子はどうだっただろうかと思う。自分にあった靴を見つけられたのだろうか。物語を求めながらも、最期までそれを成せなかった彼女もまたそれを叶えることはできなかったのだろうか。須賀敦子の本を読むたびに稀有でありながら、物語を、創作を求め続けた彼女の人生は果たしてどこに辿り着いたのだろうかと考えてしまう。