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日々夏休みのノリで読書感想文を書いています。

038|『堕落論』坂口安吾|堕落という救済

2024.07.21 読了

人生には、楽しみがなければならない。その楽しみの裏に怠惰や悔恨、憎悪などの苦しみがあり、その毒を飲み干してこその楽しみというものがある。人生なんて、だいぶ大きな主語で語ってしまったけれど、それが別に人生でなくとも構わない。あるいは「文学」なんていう言葉と置き換えてもいいのかもしれない。

 

最近、X(旧Twitter)にスペースという面白いものがあると知った。ラジオみたいなものかと思っていたけれど、自分がホストになってリスナーに一方的な発信をするのではなく、リスナーも「スピーカーになって発言もできたりして、これがなかなかに面白い。ぼくもたまに発言させてもらったりもして、進んだ世界になったものだな、と年相応におじさんっぽいことを思ったりもした。たまにはおじさんっぽいことも呟かないと、そのうちただの若作りおじさんと呼ばれるようになってしまうので、今後はちょっとこういう発言を積極的に取り入れていこうと思う。

 

さて、それはさておき、Xのスペースの話である。イーロン・マスクの会社でも東武鉄道が誇る高速特急の話でもない(いいね、こういうくだらない発言もおじさんっぽい)。そのスペーシアXじゃなくて、スペースXでもなくて、Xのスペースで「文学」について、ある人から聞かれたけれど、「文学」というものはなんなのか、という問いである。ここはちょっとまだうまいこと、言語化できていなくて、ただなんというかぼくにとっては、「安全の中心」みたいな場所が心の中にあって、そこに合致するものが「文学」である、というようなことを答えたと思う。

 

「安全の中心」というのは須賀敦子さんが言っていた自分の最後の砦のような部分のことでもある。そこに響くもの、ただのその「安全の中心」が何なのか、というところがある程度見えてこないと話にもならない。では、そのぼくにとっての「安全の中心」とは?──それがこの坂口安吾の『堕落論』を読んでいて、ふと解像度を増したのである。

 

ぼくの「安全の中心」──それは「毒」である。毒と言っても種類が多いけれど、例えばネガティブな感情を抱かせるものである。そういった感情を抱えて、人間は堕ちきるところまで堕ちきらなけれければ救いはないと安吾先生(とあえて呼ばせてもらう)は語っている。戦後すぐの時代の中で、あのあまりにも愚かしい戦争を安吾先生は「偉大な破壊」と呼び、戦時下にあってこそ日本人の美しさというものが存在したというようなことを言っている。なかなか不謹慎な男である。

 

しかし、安吾先生の言いたいことはすごくわかる。例えば、赤穂浪士を処刑することで、徳川幕府は永遠の義士に仕立て上げようとしたが、そういう武士道を例に挙げ、安吾先生はそれを編み出すために日本人は堕ちきるところまで堕ちたのだ、と語っている。でなければ、人の生を軽んじ、その刹那にこそ美しさ、美学を求めるような道はあってはならないのだ。そして、その毒を持って、あの時代に確かに救われた人はいたのだ。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

そうだ、だからぼくも毒を含み、救われたのだ。文学、という「毒」によって。

 

この本には『堕落論」のほかに、『続堕落論」やいろいろな批評が入っている。とくにぼくは小林秀雄の評論である「教祖の文学」がお気に入りになった。安吾先生はこの中で小林秀雄を散々褒めて貶している。この二人は本当に仲が良かったんだなということが伺えるので、とても微笑ましかった。

 

堕落論』なんていうととてもネガティブな印象があるかもしれないけれど、とても軽快な文体で、おもしろおかしく自分の考えを述べているので、デカダンと呼ばれた当時のこの大文豪の思想に触れてみるのも良いと思う。