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日々夏休みのノリで読書感想文を書いています。

051|『深い河』遠藤周作|信仰という形

『深い河』遠藤周作講談社文庫|2024.09.12 読了

 小学生の頃、初めて聖書を読んだ。ぼくはクリスチャンではないし、家も浄土真宗なので、なぜ聖書があったのかはわからない。きっと、ミッション系の私立中学に通っていたひとつ上の兄のものだと思う。

 

 キリストの弟子たちによる福音書はとても退屈なものであった(面白おかしく読ませるためのものではないから当たり前のことだ)。どれもこれも似たような内容で、「こんなの誰かひとりが残せばいいじゃん」と思っていた。しかし、最後にある「ヨハネの黙示録」だけは、福音書とは毛色がちがった。

 

 「ヨハネの黙示録」は最後の審判の日を描いたものである。黙示録を読むまでは、神というのは全ての人間の味方であると思っていたのだけれど、どうやら違うらしい。天使を使って3分の1の人類を滅ぼした神様というのは悪魔以上に恐ろしいものだと思った。だから、審判の日、神の前に立たされるまでに、全ての罪を悔い改め、主を信じなければならない、とこういうことなんだろう。

 

 なんだか脅しのような手口だと思った。入り口がそんな印象だったし、他の宗教についてもそうだ。信じる神が違うものたちの争いを学び、宗教というものにあまり良い印象は持てなかった。しかし、本を読むようになって、高校生の頃にジッドの『狭き門』を読み、その後で、遠藤周作の『侍』を読み、二十代の初めに須賀敦子の本と出会って、宗教に対する見方が変わった。いや、”信仰”という姿勢に対しての見方が、と言った方がいいと思う。そこに描かれている”信仰”はとても高潔で美しいものであった。

 

 その印象を決定的にしたものが、この『深い河』であった。『侍』を読んで以来、二十年ぶりの遠藤周作である。遠藤周作は母親が好きで、昔からよく勧められたが、”宗教”というものに偏見を持っていたぼくはしぶしぶ『侍』だけを読んだ。『侍』はすごく良かったのだけれど、それからはなんとなく縁がなくて読んでこなかった。『深い河』もなんとなく書店で見かけ、他に欲しい本もなかったから、とりあえず、という感じで買っただけだった。

 

 今回、手に取ったのも須賀敦子の『ユルスナールの靴』を読んで、そこでジッドの『狭き門』について書かれていたからジッドを読み、なんとなくキリスト教に関連した本を読む流れができてしまったので、『深い河』を手に取った。しかし、読み終えてみて、”信仰”というものにひとつの形が与えられたように思えた。

 

 平易な文体で読みやすいというのはあるが、ストーリーが俗っぽく、なんとなく好きになれない、というのが読み始めの印象だった。『侍』の印象とはかけ離れていて、何か意味を見出そうすることもできない。登場人物たちの誰にも感情移入できない。それでも読み進めたのは何かがあるのかもしれないという遠藤周作という作家に対しての期待だろう。

 

 しかし、正直なところ、読み終えた時も何も感じなかった。終わり方も唐突すぎて、ひどい作品だな、というのが読み終えたすぐの印象だった。しかし、この作品はなんだったのだろうか、と考えて登場人物のセリフや筋を思い返した時、この作品はあまねく宗教に対して、遠藤周作という作家自身の”信仰”の形を問うものであったということに思い至り、ハッとさせられた。いや、”宗教”に対してだけではなく、信仰を持たないものたちに対しても作家は問うていた。それを俗っぽい筋と平易な文体に隠していたのだ。

 

 ただ単にぼくの読解力がなかっただけかもしれないけれど、読み終えてそのことに気づいた時にこの作品がとても凄まじいものに思えてきた。ずっと信仰をたずさえてきた作家が最後に見出した答えを、それをあまねく社会に問うたその姿勢をそう言わずしてなんと言えばいいのだろうか。