90年代というと、ぼくは大半を小学生で過ごし、そして中学生の半ばになってあの狂騒じみた2000年という年を迎えた。だから、あまりなじみのないというか、うっすらとした記憶の中にしかない時代ではある。
とは言え、年越し番組で小室ファミリーが『YOU ARE THE ONE』を歌っていたのは覚えているし、その時代も終わりに差し掛かった1999年のクリスマスには、初めて同級生の女の子と竹下通りでデートしたことも覚えている。その女の子とはそのすぐ後で終わり、彼女と撮ったプリクラをキッチンで燃やして、母親にこっぴどく叱られたのはいい思い出である。
ノストラダムスによる終末も、Y2Kによるコンピューターの暴走もなく、世界が固唾を見守る中、時間はあっけなく千年紀の最後の年へと歩を進めた。
あの頃の友だちとはもうずいぶん長いこと連絡をとっていない。たまにFacebookで友だち申請が来ることもあるけれど、そこにアップされている画像にはまったく馴染みのない大人になった彼らの姿がある。皆、それなりに何かしらの問題は抱えているだろうけれど、満ち足りた生活をしているのだということがよくわかる。そんな彼らの姿を見て、ぼくはソッと苦笑しながらひどく荒んだ気持ちになる。
もう、みんな立派な大人であり、ぼくといえばいまだにフラフラとしていて、いつまでもあの時代から宙に浮いたままでいるような気がする。
残念ながらぼくは大人になることはできなかった。
たしかにぼくたちはそこにいたんだ
タバコも酒もやるようになって、いつの間にか働くようになって、一度は家庭だって持った。父親にもなった。でも、大人と呼ばれるような年齢になろうが、子どもの頃から何も変わらない。階段で息を切らすようになったり、身体が思うように動かなくなったり、孤独に対してあまり気に留めなくなったりするくらいのことだ。
そんなひとりの時間の休日に酒を飲みながら何か映画でも観ようとNetflixを開き、そんな感傷的なタイトルの映画を見つけてしまった。まんまと釣られてしまったわけだ。
ひと言でいえば、とても好きな映画だった。90年代と2000年代の初めの頃──我らが時代である。それに森山未來が格好良かった。昔から好きな俳優だ。『世界の中心で愛をさけぶ』の頃からだ。原作を読んで、その後になって映画を観に行ったが、それはまた別の話だ。
それにしても、この映画はあまりにも良かった。Netflixもいい映画を作るなぁなんて脚本家なんかを調べていたら、原作があることを知った。知った以上は買って読んでみるほかない。そんなわけで原作を手に取った。
意外だったのは原作があまりにもあっさりしていたということだ。華美な心情描写も、豪勢な情景描写もなく、淡々とした平易な文章で物語は進んでいく。しかし、それだけでよかった。状況と作中に多く散りばめられた固有名詞たちが、時代の輪郭や匂いを際立たせてくれる。
90年代と2000年代のあのどこに向かうともしれないような不安定さの上で揺らいでいたあの空気感と、底抜けに楽しかったあの時代が確かにそこに浮かび上がる。
そうだ、ぼくたちはたしかにそこにいたんだ、と思わせてくれる。
世代によって見てきた景色は違うかもしれないけれど、過去に確かにぼくたちの時間はあって、その実感によってあの綺羅を纏ったような情景が支えられているのだ。
誰にだって帰りたい景色があるはずだし、時間がある。そんなノスタルジーを思い起こしてくれる作品であった。