BOOKWORM

本との出会いのこと、とか。

009|『スモールワールズ』一穂ミチ|人生に触れた時の優しさや淋しさ

<内容>
夫婦、親子、姉弟、先輩と後輩、知り合うはずのなかった他人ーー書下ろし掌編を加えた、七つの「小さな世界」。生きてゆくなかで抱える小さな喜び、もどかしさ、苛立ち、諦めや希望を丹念に掬い集めて紡がれた物語。


 

冬に秋田へ旅行した時、電車の中に閉じ込められたことがあった。

二十歳になったばかりのことで、一人旅だった。新幹線から雪のちらつくホームに降り立った時、低く重たい雲の隙間から薄日がさしていた。しかし、羽越本線に乗り換えて山形の県境の町に近づいたとき、天候は急転し、強い風に雪と雨が混じり、車窓の外は白く閉ざされていた。電車はゆっくりと徐行しながら運転していたけれど、目的地の駅の手前でとうとう止まってしまった。

その時、一緒に乗り合わせていた女の人のことを、今でも時々思い出すことがある。

歳は七十くらいで訛りはなく、標準語で話をしていたのが印象的だった。車内には他に二、三人の乗客しか乗っておらず、閑散としていた。強い風と軋むように揺れる電車の不穏な音だけが車内に響き渡っていた。ぼくは無性にタバコが吸いたくて仕方なかった。

「旅行かしら?」と彼女はひとつ席を空けて隣に座るぼくに訊いた。
そうです、とぼくは答えて、目的地を伝えた。
「じゃあ、あとひとつ先の駅ね。私はもう少し遠いから、ちょっと困ったわね」
「どこまで行くんですか?」
「新潟の姉夫婦のところまで。甥っ子が駅まで迎えに来てくれるはずなんだけど、これじゃあ真夜中になっちゃうわね」

新潟までどれくらい時間がかかるのかわからなかったけれど、地理的に考えてそれが途方もない旅路であるのはわかった。

一時間ほど話をして、電車が動き出し、ようやく目的地に着いてぼくは女の人と別れた。

お元気で、と彼女はぼくに声をかけてくれた。

彼女がそこから無事に目的地まで辿り着けたのだろうか──二十年近い歳月が経った今でも時々その時のことを思い出すことがある。

 

人生に触れた時の優しさや淋しさ

できることならその女の人とその後の時間を共にして、すべての顛末を見届けたかった。

しかし、ぼくたちはどうしたって誰かの時間を生きることはできない。ことの一部を見届けたとして、その後の時間を共にすることもできないし、その瞬間瞬間に含まれる責務を負うこともできない。ただ人生という熱を帯びた時間に触れたときの温もりだったり、あるいはその冷たさだったりがあるだけなのだ。

この作品もそうだと思う。短編のひとつひとつの作品にそういう優しさがあったり、あるいは淋しさ、恐怖にも似た感情が湧き起こる。まるで誰かの時間を覗き込んでいるようだった。

そう思わせてくれるのは物語の濃度が高さにあるのだと思う。緻密に作り込まれた物語もあれば、本当に誰かの時間を切り取ってきたような物語もある。そして、そのすべてが切り取られた枠の外に延伸の時間を持っている。だから、この物語のひとつひとつに、これはハッピーエンドでした、これはバッドエンドでした、なんていうことは語ることができず、ただ誰かの人生に一瞬触れてしまった時のような温もりや、あるいは淋しさが残る。

ぼくはそういった感情を抱え込んだまま、この作品を読み終えたとき、椅子の上でぼんやりと二十年前のあの電車の中でのことを思い出していた。

作者は「私はこれからも、小さな窓からそこで暮らす人たちのことを覗き込んで書くんだろうな、と思います」と文学賞の授賞式のときに語ったらしいけれど、

もし、この作者だったらどんな風にあの時間のことを切り取ることができるのだろうか。そして、ぼくだったらあの時間のことをどんな風に切り取るのだろうか、とそんなとりとめのないことを考えていた。