若い頃、海外文学はほとんどSという友人から教わった。レイモンド・カーヴァーやチャンドラー、ジャック・ケルアック、ジョン・アーヴィングなどの作家たちだ。Sはいつもそういった作家たちの本を読んでいて、読み終わるとぼくに貸してくれた。彼がぼくにとって海外文学の案内人であった。
Sはとても洒落た男だった。いつもシャツを着て小綺麗にしていたし、周りの連中がセブンスターやハイライトなんていう土臭いタバコを吸っている中で、彼はフランス製のゴロワーズなんて吸っていた。それにどこか飄々としていた。まるで命をいくつも持ち合わせているような軽さが会った。それはきっと海外文学ばかり読んでいたせいかもしれない。
浅はかではあるけれど、海外文学にはそういう軽さがあるように思う。どこか洒落ていて軽妙なのだ。例えば、小説の中で、もし「日本とは?」なんていう問いがあったとしたら、どこか陰鬱として重い。しかし、もし、「アメリカとは?」なんていう問いがあったとしたら、そこには自由の香りがし、強い陽射しが降り注ぐようでもある。
これは本当にただのイメージの話なのでそこを理解しないと困るというようなことはない。ただ、なぜ、こんな話をしているのかというと、ブローディガンの作品には、いつもそういう匂いを感じるのだ。
ブローディガンもSから教わった作家の一人だった。最初に読んだのが『アメリカの鱒釣り』で、そこからビートジェネレーションを知り、バロウズやケルアックを読んだ。しかし、彼はビートジェネレーションを代表する作家ではあったが、ビートニクではなかった。そういうところもいい。
『アメリカの鱒釣り』でもそうだったが、独特な比喩表現は唯一無二であり、どこかメランコリックな掌編たちはきっと彼がサンフランシスコに来てからずっと取り組んでいた詩作によるものなのだろう。そして、彼の作品にはいつも「アメリカとは何だろうか」という問いが、根底に流れている。
『アメリカの鱒釣り』では、その問いの色が前面に出ているように思えるが、『芝生の復讐』ではアスファルトに染み込んだ雨のように匂いが立っている。ただ、ブローディガンはアメリカでは今や忘れ去られようとしている作家であり、一方で日本やフランスで人気があるとのことだ。このような皮肉もどこかブローディガンらしく思える。
ともあれ、もしぼくがアメリカを代表する作家を挙げろと言われれば、ぼくは真っ先にブローディガンを挙げるだろう。イメージを紡ぐような掌編たちをぜひ手に取ってみて欲しいと思う。