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本との出会いのこと、とか。

011|『きみの鳥はうたえる』佐藤泰志|その夏がずっと続けばいいと思った

<内容>
世界に押しつぶされそうになりながら懸命に生きる若者たちのたったひと夏の青春を切り取った名作。


 

20歳の頃を思い出すと、底抜けに楽しかったこという記憶しかない。とくにその年の夏は本当におもしろかった。

夜半に公園のベンチに集まって、なけなしの金を持ち寄って、酒とちょっとのツマミを買って、夜が明けるまで飲み明かした。友人たちはみな中学からの同級生だった。不良というわけではなかったけれど、優等生というわけでもなく、どこにも振り切れず、はじかれた者たちであった。大人たちからクズと呼ばれることなんて日常茶飯事だったし、どこに行っても白い目で見られた。

それでもその狭い輪の中で、ぼくたちはひたすらに楽しく生きていた。世界を呪う言葉さえどこか明るかった。

しこたまビールを飲んで、地面に寝っ転がり、「明日世界なんて滅びちまえばいいのにな」と呟いた友人のあの笑顔をぼくは今でも忘れない。時折、そのときのことを思い出しては、フッと笑みが唇の端にこぼられるような気がする。

そして、あの時の笑顔のままでこのクソみたいな世界を呪う。

「明日世界なんて滅びちまえばいいのに」と。

その夏はまるで永遠のような一瞬だった。あの時間さえあれば、ずっとその先だって生きていけるような気がした。その時間がずっと続いていくことだけをぼくたちは願っていた。しかし、その季節が過ぎ去ったあとで、それぞれがそれぞれの世界に捕まり、あるものは大学を辞め、あるものは夢の形を変え、あるものは心を病み、あるものはいなくなった。たまに連絡が来るものもいるが、互いに生きていることを確認するだけのような短いやりとりで、あとはまたそれぞれの世界に戻っていく。

あの夏だけが永遠に思い出の中に閉じ込められている。

 

その夏がずっと続けばいいと思った

彼らもまたそうなのだ、とこの作品を読んで思った。

永遠に閉じ込められた夏がそこにはあった。ずっとその夏が続いていけばいいと、とぼくは彼らの時間を思った。

酒ばかり飲んで、ただそこにある享楽や快楽を無為のまま浪費していく若者たちの姿が印象的な作品だ。主人公の“僕”と同居人の静雄、そして佐知子との奇妙な関係──彼らが過ごしたそのひと夏はまるで永遠のようでありながら、もうどこにも行けないような閉塞感と、あるいはいつか終わってしまうというようなひりつくような不安定さのうえに揺れている。

いつか終わる──なぜ、それだけではダメなのだろうか、と思ってしまう。その関係性を崩さなければ、その時満ち足りていた空気だけを握りしめていたら、きっと終わりなんてなかったのではないかと思ってしまう。それが自分の時間に対してなのか、その三人に対してなのかはわからないけれど、まるで追体験でもあるかのように自分自身と物語とのあわいを消してしまうような、あの妙に生々しい感情はきっとぼくだけが抱くものではないと思う。

たとえば、ある雨の夜に三人が一本の傘に入って、歩いていくシーンがある。とても印象的な場面だ。とても楽しそうで満ち足りていて、なぜそこにあった時間だけでは足りなかったのかとぼくは考えてしまう。ずっとそのままでいることができたら、なんていうのは、あまりにも安直な感情なのかもしれないけれど、ぼくたちはずっとそうやって願ってきたはずだ。

いつかは終わってしまう──誰もがそんなことはわかっているけれど、その曖昧な終わりの予感こそが、その永遠にも似た空気が止めるそのひと夏を輝かせるのかもしれない。

瑞々しくそれでいて儚げに、誰もが持つ”あの頃”を呼び起こさせてくれるようなそんな作品であった。