BOOKWORM

本は鎖のようにつながっている。そんな”ぼく”の読書体験とちょっとした感想、とか。

012|なぜ、彼はラヴェルを弾いたのか?/『いちご同盟』三田誠広

最近になって──とはいってもここ10年くらいの話なので、あまり最近とも呼べないかもしれないけどよくマンガを読むようになった。

 

昔はあまり読まなかったのだけど、おじさんと呼ばれるような年回りなってからふいにマンガを買うようになった。10代から20代までの頃はほとんど小説ばかりで、大学受験真っ最中の時も悠々と『燃えよ剣』を読んだりしていたものだ。よくもまあ、親からはっ倒されなかったものだ。うちの親は実に寛大である。

 

それはさておき、最近は本当にマンガをよく読む。Kindleという手軽な手段を覚えたということもあるかもしれないけれど、最近だと『葬送のフリーレン』がお気に入りで、「フリーレンかわいいなぁ」とか思いながら、マンガを読み耽っている中年男の姿をぜひ想像してみてほしい。けっこうな事案だと思う。

 

まあ、それもさておき、そんな風に最近はよくマンガを読むのだけれどきっかけになった作品がある。『四月は君の嘘』だ。有名な作品だからぼくなんかが詳しく内容を語らなくても、みんな知っていると思う。

 

ピアニストである少年と、バイオリニストの少女との恋の物語だ。音楽を通して心を通わせる彼らの姿はとても眩しく、中学生の青春という設定だけで40手前のぼくには致命傷になりかねない。過ぎ去ったいろいろなことが思い出され、目頭が熱くなる。年は取りたくないものだと思う。

 

しかし、そんなノスタルジーでこの作品を好きになったというわけではない。最初は爽やかな青春のラブストーリーだと思っていたけれど、読み進めていくにつれ徐々に重さが圧しかかってくる。不穏な空気が立ち込め、その重さに胸が締めつけれるような思いがした。その感覚をぼくは知っていた。そして、そのセリフに行き当たり、息苦しくなるほどの懐かしさを感じた。

 

「あたしと、心中しない?」

 

誰かの激しい息遣いが聞こえてくるようでもあり、その中で幼い声でまた別の誰かがつぶやいたような気がした。

──ばかやろう、と。

それはぼくがまだ大人になる前の頃、何度も何度も繰り返し読んだ小説だった。

 

四月は君の嘘』は『いちご同盟』のオマージュであると言われている。たしかに設定は似ているし、セリフもいくつか引用されているけれど、ぼくは『いちご同盟』が突きつけてくる「生きるとはどういうことか?」というテーマに対しての、ひとつのアンサーだと思っている。だから、主人公の有馬に「僕はラヴェルは弾かないよ」という選択させたのかもしれない。その先はたとえ悲しみを携えたまま生きていくとしても、その等価としての希望のようなものがそこには見える。死を意識した時、どう生きるのか、それはとても大事なことだ。

 

ハイデガーが提唱した「被投性」というものがある。ぼくたちは自ら望んだわけでもなく、勝手に世界に放り込まれて、いつか死ななければならないという定理のもとで強く未来を意識することになる。──どう生きるべきなのか、というその強い意思だ。

先駆的覚悟性と呼ばれたその意思の中で、ぼくたちは自らの「生」を再構成する。ラヴェルは弾かない──それは死へ寄り添いながらも強い意思で生を渇望した『いちご同盟』への決別だったのかもしれない。

 

ただ、一方で『いちご同盟』が諦念のもとに死を意識したものなのかというと、決してそうではない。そこにはさらに強く、現実的な意思がなされているとぼくは見る。

むりをして生きていても
どうせみんな
死んでしまうんだ
ばかやろう

この冒頭からいきなり撃ち込んでくる生へのアンチテーゼ、しかし、死にゆく少女はそんな言葉を知らないままに、自らの運命において否定する。

──人を傷つけたり、傷つけられて恨んだり、いろいろと哀しい体験をして、そうしてたぶん泣きながら、これが生きるってことなんだと思う。つらくてもいいから、生きていたい……

つらくてもいいから──そんな風に言われた主人公の良一はまだ十五歳だ。もし、彼が彼女のことを知らなければ、鬱屈とした日々であったとしても、それなりの時間を送ることができていたかもしれないし、あるいはもっと楽しい時間だってその先にあったかもしれない。

しかし、人生はつらいものだと少女は言い、それでもその先の時間を見たいと強く覚悟するのだ。そこに投企された未来は、当事者にはなり得ない良一にとって、あまりに重苦しいものであるかもしれないけれど、自らの時間の中で重要性が増してくる。少女が投企した未来が、現実の形として投射されることはない。しかし、その少女の時間の中に投企されなくとも、良一がそれを持っていくことになる。もちろん、少女の幼馴染の哲也の時間にも、だ。

『四月は〜』の有馬がラヴェルを弾かないという選択は、誰もが予想しうる最悪な未来への決別であったけれど、良一がラヴェルを弾くというその選択は、良一だけのものではなく、少女の選択でもある。

「あたしは『王女』じゃないから、気にしなないで」というその台詞は、「あなたはつらくてもいいから生きて」という風にぼくには聞こえる。

どうせ、みんな死んでしまうのはたしかにその通りかもしれない。しかし、十五歳という少年少女たちにあの「死」の重さ、あるいは「生」の重さを背負わせたこの作品は、やはりすごいのだと思った。