BOOKWORM

日々夏休みのノリで読書感想文を書いています。

044|『バリ山行』松永K三蔵|現実と現実のあわい

2024.08.11(山の日) 読了

東北のとある港町に住んでいた頃の話だけれど、町の背後には大きな山があって、よく釣りに出かけたものだった。山上湖や野池を車で回っていくのだが、地形図を見ながら地図にない水場を見つけにいく時もあって、そういう時は車を降りて地図にない道を入っていくこともある。

 

これは春や夏はいいのだけれど、秋になると狩猟が解禁されるため、なかなかヤバい目にあったこともある。小さな獣道を歩いていく先にデコイが設置された場所なんかに出くわすと全身の毛が逆立つ。デコイは熊や猪などの大きな獣を誘き寄せるための、鳥や小動物などの模型だ。つまり近くに獣がいる可能性もあるし、それよりも何よりも怖いのは猟師から撃たれる可能性があるということだ。

 

デコイを見つけるとぼくは音を立てずにその場から逃げるようにしていた。誤って撃たれる可能性はあまりないけれど、何度か近くで銃声を聞くこともあったし、その度に心臓が粟立つ思いをした。

 

しかし、なんでそんな思いをしてまで山に入るのかというと、当時はそんなことをあらたまって考えたことはなかったけれど、この『バリ山行』を読んでみたら、そこにぜんぶ書いてあった。

 

『バリ山行』はつい先日芥川賞を受賞した作品なので、知っている人も多いだろう。ぼくは山はやらないので、巷の感想に言われているような”登山あるある”はわからない。わからないけれど、山に入っていく感覚が生々しく描かれていて、そこに気持ちを重ねることができた。

 

釣りをしていた頃、当時は移住したばかりで仕事もプライベートもうまくいかず鬱屈とした毎日を送っていた。近くの公園の皿池で釣りをしていても、どこか気が晴れず、それで地図を見ていたら山の中に野池がいくつもあるのを見つけた。それをきっかけに山に入るようになった。

 

山に入っていくのはとてもしんどいことだった。道のない道を延々と歩きながら、本当にそこにあるのかもわからない水場を探すのだ。とくに地形図を頼りにすると、空振りのこともある。水場の地形だと分かっていても、すでに水が涸れていることもしばしばで、それでもそんな釣行をやめなかったのは、その過程が楽しかったからだろう。

 

薮を漕いだ先にふと景色が開け、町や海が一望できるような場所や、獣道の先に色づいた楓の絨毯があったりすると日頃の鬱屈とした時間が、一気に霧散する。もちろん危ない目に遭うこともあったけれど、それもまた確かに生きているという実感が湧いてくる。

 

仕事で死ぬことなんてほとんどないけれど、それでも生きるか死ぬかというような重大さを重ねてしまっていることに気づかされる。しかし、自然には死と隣り合わせの瞬間があり、そこで感じる生きるか死ぬかという感覚は本物なのだ。

 

『バリ山行』にはそれが描かれている。”街”と”自然”─どちらに現実があるのかというその問いに、果たして答えがあるのかどうかわからない。どちらにも現実と呼べるような瞬間はあり、山に入っていくのはそのあわいが溶け合う瞬間を求めていたのかもしれない。

 

『バリ山行』は山岳小説である。ただこれまでにあったような山岳小説とはちがう。なんというのか、うまい言葉が見つからないけれど、”Urban & Local”という現代のライフスタイルの裏側にある深い根っこのようなものを見せつけられるようなそんな小説だった。