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日々夏休みのノリで読書感想文を書いています。

045|『ロード・ジム』ジョゼフ・コンラッド|物語に導かれた物語

2024.08.17 読了

昔、小説家を目指していたということをこのブログで語ったことがあっただろうか。最近の物忘れの酷さと言ったら過去最高であり、たとえばシャンプーをした後にシャンプーしたことを忘れて、二度目のシャンプーをするなんてことはざらである。それが原因なのか年のせいなのかはわからないが、ぼくのキューティクルは壊滅的なダメージを受けている。

 

さて、それはさておき、小説家を目指していたという話である。つまり、ぼくも小説(と呼んでいいのかどうかはわからないが)を書いていた。その経験から言わせてもらえれば、小説というのは大まかに2種類の方法で書かれるものだと思っている。1つは緻密に計算されて書かれたものであり、もう一つは物語に導かれて書かれたものだ。

 

後者の場合、まるで物語が意思を持っているかのような言い方であるが、書かれたがっている物語というものは確実にあると思う。ぼくも小説を書いていて、幾度かそういう経験をしたことがある。それまでずっと筆が止まっているというのにあるシーンになると、急に筆が走り出すのだ。

 

しかし、それにも良し悪しがあって、あまりやりすぎると筆が滑るのだ。不必要なことまで書こうとしてしまう。そうして、ぼくは世にも恐ろしい駄文をこれまでいくつも書き散らしてきた。なんでも書きすぎは良くないのである。今、そんな作品を読み返すと黒歴史でしかない。若い頃の黒歴史は骨を強くすると言われるが、もう恥ずかしくて見てられない。

 

と、まあ、こんな風に筆が滑り、ぼくはまた余計なことを書いているわけだけれど、筆が滑りすぎた作品に名作が生まれるということもある。それが『ロード・ジム』というわけだ。筆が滑りすぎたというのは、読み始めてみればすぐにわかると思う。圧倒的に濃密な文章が続く。それが500ページ超も延々と続いていくのだ。

 

当初、『青春』『闇の奥』『ロード・ジム』をもってして三部作とする予定でいたらしいのだが、『ロード・ジム』が予定よりも長くなりすぎて、三部作とはならなかったということらしい。もうこの逸話だけで『ロード・ジム』がいかに筆が滑りすぎているかがわかる。だが、その結果、『ロード・ジム』は名作となったと言っても過言ではない。

 

あらすじとしては、ジムという船乗りの少年の後ろ暗い過去から始まり、その後、未開のジャングルの奥地に赴任して、ロード・ジム(=ジム閣下)と呼ばれるまでに至る経緯を描くものである。ジムは乗っていた船が沈没事故に見舞われた際に、船に残らず乗客を置き去りにして逃げたのだ。それは船員としては不名誉なことであり、ジムは自らの良心に背いたのだ。

 

ジムは船員として自らを裏切り、名前に傷を負った。それをずっと悔いて生きていた。だから、その後、未開の地で活躍し、地元民たちから崇められるような存在になったとしても、彼の人生を総じて見たときにそれは決して幸せなものではなかったのではないかと思う。

 

人間の尊厳とは何か、──読み終わった後、はっきりとした後味の悪さの中で、この物語はそんな主題を突きつけてくる。このジムの人生を描くには、きっとこの圧倒的な分量でなければならなかったのだと思う。物語に導かれることによって、この”物語”は生まれたのだと思う。

 

これは余談だけれど、村上春樹の『ノルウェイの森』にも『ロード・ジム』は登場する。主人公のワタナベが、永沢から借りて呼んでいるシーンがある。しかし、意外なことに村上春樹は『ロード・ジム』を読了するのが積年の望みだったと語っている。クセがあり、なかなか読み通すことができなかった、と。この挿話にも、物語の熱量のようなものを感じてならない。