BOOKWORM

本との出会いのこと、とか。

006|『グレート・ギャツビー』スコット・フィッツジェラルド|さあ 金色帽子を被るんだ

<内容>
第一次世界大戦後のニューヨーク郊外を舞台に、狂おしいまでにひたむきな情熱に駆られた男の悲劇的な生涯を描き、何度も映画化された20世紀文学最大の問題作。滅びゆくものの美しさと、青春の憂愁を華やかに謳いあげる世界文学の最高峰。


 

恋は時として人生を狂わせることがある。

こういう言葉はあまり好きではないけれど、事実、身をもってしてぼくはそのこと知っているのだから仕方がない。ぼくはその時、その恋だけで多くのものを奪われたし、あるいは多くの人間たちの時間を変えてしまった。

それでも、ぼくはまたその恋の先にいた“彼女”にもう一度会いたいかと問われれば、もちろん会いたい。それが人生の破綻へとつながっていくとわかっていても、ぼくはまた人生が繰り返されるのなら同じ道を選ぶと思う。

あの時、選択を誤ったとは微塵にも思っていない。でなければ何も報われないからだ。

だから、ぼくは金色帽子を被り、跳びはねる。また“彼女”に見つけてもらえるために、ぼくは高く跳ぶのだ。

 

さあ 金色帽子を被るんだ

高く跳んだ先に何が見えただろうか。

それがぼくには今でもわからない。ギャツビーにはどう見えただろうか?

20代そこそこの頃、ぼくは『ノルウェイの森』のワタナベのように『グレート・ギャツビー』を愛読書にしていた。

完璧とも思える男が人生を食われて破綻していく姿を面白いというのは悪趣味なのだろうか。しかし、そこには多くの機微を含み、多くの教訓を残し、多くの人間たちの時間が使われて、徐々に綻びを帯びていく様は、何も知らない学生だったぼくにとってはあまりにも新鮮だった。

ロストジェネレーションと言われた第一次世界大戦後のアメリカ──どこか退廃的で、情景描写には薄い影が付き纏い、欺瞞と虚栄に満ちたあの空気感もどこか洒落ていて格好よかった。

そういう感想だけで、いられればどれだけ幸せだっただろ。人生と恋を等号で結びつけることはできないにしても、不等号でも結べないくらいに多くの人の人生を狂わせてきた。ギャツビーが人生を賭けてまでデイジーを手に入れようとした気持ちが痛いほどわかる。

ただ好きな人に見つけてほしかった、振り向いてほしかった。

たった、それだけなのだ。

それだけのことをギャツビーという男の人生に投射し、恋を死につなげたことで、この作品は小説として完成されたと思っている。

たった一つの恋が人生を変えるなんて馬鹿馬鹿しくてくだらないと思うかもしれないけれど、ぼくたちはいつだって俗物であり、だからこそ、好きな人の前では高く跳ぼうとするのだ。

『さあ 金色帽子を被るんだ それであの娘がなびくなら あの娘のために跳んでみろ』って。

跳んだ先に何が見えるのかなんてわからない。わからないけれどその先を見たいと思ってしまう。

100年ものあいだこの作品が読み続けられてきた理由もそこにあるのだと思う。

 

 

004|『檸檬のころ』豊島ミホ|世界はこんなに熱いんだ

いま思えば、とてもくだらない青春時代だった。高校は山に囲まれた辺鄙な田舎にあって、カノジョなんているはずもなく、野郎ばかりに囲まれ、いつも学校帰りにマックやロッテリアに入ってはくだらない話ばかりをしていた。

 

高校を卒業してからもそんな調子で、「大学に入ると誰でもカノジョができる」なんていう伝説もあったけれど、まったくそんなことはなく、20歳になるまでしっかりと童貞であった。周りも実にそんな感じで、そんな男たちが寄り集まって、酒ばかり飲み、酔っ払って騒ぎ、酔い潰れて道ばたで眠ったりもした。

 

そんなどうしようないことばかりしていたから、大学も普通の人間たちが四年間で卒業するところを、うだうだと五年も居続けてしまい、ようやく社会に出たというのにそれでもまだずっとあのくだらない青春時代の延伸を生きているようなつもりでいた。

 

しかし、年を重ねるごとに、その頃のひとりまたひとりと友人たちは離れていき、気づいたらもうぼくの周りには誰もいなくなっていた。大学時代のカノジョとは、まだぼくが学生の時に結婚したけれど、彼女とも今となってはもう他人の関係になっている。

 

もうぼくの周りには希薄な人間関係しかない。たまにふらりと飲みに行って、隣り合った人たちと他愛のない話をするくらいで、酔っ払わないうちに家へと帰る。もうぼくは大人になってしまったのだ。

 

だから、時折ふと過去を見渡してみて、あのくだらないと吐き捨てた青春時代が、何もなかったはずの時間たちがとても愛おしくなる。

 

世界はこんなに熱いんだ

好きだった女の子とのすれ違い、叶わなかった思い、周りも見えなくなってしまうような恋、特別になれなかった自分──青春なんてそんなことばかりだった。それが普通のことだったし、そこに見渡すべきものなんて何もなかったと思う。

 

しかし、この小説にはその「普通」だったことがあまりにも眩しく描かれている。初めてこの短編集を読んだ時、まるでずっと昔に捨ててしまった景色や感情たちを拾い集めているような気がして、胸の詰まるような思いがした。何気ない一瞬が、とても愛おしく思え、過去に通り過ぎた景色が熱を持って見えるような気がした。

 

世界って、こんなに熱いんだ──

 

本作は映画化もしていて、その中で出てくるフレーズでもある。あの頃に、ぼくはその熱を感じることができなかった。しかし、すべて通り過ぎてしまった後では、途方もない懐かしさの中でかつて──「あの頃」の中にあった世界の温度を感じた。たしかに、世界はこんなにも熱かったんだ、と思った。

 

作者は「普通」を輝かせる天才だと思う。いつも日常の片隅にいて、その瞬間の中心になりえなかったものたちにも光を当ててくれる。それは振り返った先で道に跳ねた日差しのようでもあり、キラキラといつまでも輝いている。

 

跳ねるように軽妙な文体であの瑞々しい瞬間を切り取った短編たちは、どこか傷を隠しているような優しい懐かしさを感じる。連作として連なるこの短編たちを読みながら、ぼくたちはいつでも「あの頃」に帰ることができる。

まるで卒業アルバムを眺めているような、そんな作品だった。

 

 

003|『八本脚の蝶』二階堂奥歯 | ”限界”という世界の中で

25歳だった頃、ぼくはいったい何をしていただろうかとふと思い出してみる。当時、社会人になったばかりの頃で、しかも学生結婚で子どもも小さかったから、家族のために死に物狂いで働いていた。毎日がとにかく必死だった。日付が変わる頃に家に帰り、少し寝て、まだ夜が明けないうちに仕事へと出かけていく──そんな日々の繰り返しだった。

 

そんな生活ではあったけれど、本を読むことだけはやめなかった。朝トイレに入る時も久生十蘭の短編を持って入り、昼休みには八重洲ブックセンターで本を漁っていた。どんなに疲れていても、電車の中では居眠りせずに本を読んだ。本を読むことに何か大きな意味を持っていたのかもしれない。あるいは闘争とも呼ぶべき何かをそこに見出していたのかもしれない。

 

それが何であったのか、それはもう今となってはわからない。そもそもそんな戦いなんて、本当は存在しなかったのではないかとも思える。しかし、ぼくがそんな風にして生きた時間を、“彼女”は明確に戦っていた。膨大な数の書籍を読み、世界の深淵を覗き、そして死んだ。25歳だった。それはとても悲しいことだと思う。

 

”限界”という世界の中で

”限界”という世界があり、それを迎えてなお生きようとすることはできない。

 

幸いなことに、ぼくはまだその”限界”というものを見たことがないし、「もうダメかもしれない」なんて思うような幾つもの瞬間を、どうにかこうにかやり過ごすことができた。しかし、残念なことに”限界”に行き当たってしまった人を、ぼくはこれまでにも何人か見てきたし、それが自分の手によるものであれ、本当にたった一つの選択の違いによる外的な要因であれ、この世界の中から滑り落ちていった。

 

この本を読んだ時に意識したのは、その限界だった。思うに彼女は文章を綴りながら、とっくに”限界”を迎えていたのかもしれない。そして、世界がそこかしこに終わりの口を開けて、彼女のことを待っていたのかもしれない、と。

 

この本は、彼女が2001年からブログに公開していた日記を書籍にまとめたものであり、好きな本のことや、ファッション、コスメのことを綴ったものである。彼女はぼくよりも少し年上で、ビブリオフィリオであり、乙女であり、なんだか近しい友人のことを読んでいるようでとても微笑ましかった。

 

しかし、膨大な読書量に裏打ちされた彼女の知識の深さは、どこかこの世界にあってはいけないもののような不均衡さを抱えていた。読み進めていくにつれ、その影は徐々に濃厚さを増し、危うげにゆらめく彼女の文章の上を彼女は渡っていくようだった。それは最初から結末を知りながら読み進めるものにとっては、とても辛いことである。

 

彼女はどうであっただろうか。彼女は求めてそこへ進んでいたような気がしてならない。まるでその不均衡さが彼女にとっての苦しみであり、それを吐き出すことが救いであったようにすら思えてくる。それは彼女の戦いであった。そうして彼女はすでに”限界”を迎えた世界の中で、26歳の誕生日を間近に控えた日に自ら終わる選択をする。

 

死の直前まで彼女の日記は綴られており、最後の日記を読み終えて、なんともいえないような気持ちになる。戦いつづけた人にもっと戦ってほしかったとはいえないし、そんな戦いをする必要はないのだとも、ぼくにはきっと言えないだろう。だからこそ、そこにあった”限界”で彼女がせめて安息を得られたのであれば、と願ってやまない。

 

ぼくはもう戦うことをやめて、ひたすらに戦わずして得られる安息の中にいて、何もかもを諦める選択ができるようになったけれど、戦いながらも何者にもなれなかった25歳の自分を思い、少しだけ彼女に憧れた。

 

 

 

002|『花終る闇』開高健|懈怠と恍惚の中で

一度、地元の町を離れたことがあった。今からもう10年ばかり前のことである。男とは遠くに旅に出るものだという美学のもと、ぼくは手荷物ひとつで町を出ていった。まあ、実際は当時の奥さんの実家があった町に移住しただけのことで、お金がなかったからほとんどの家財を売り払って、必要最低限の荷物だけで町を離れただけのことだ。

 

まあ、そんなこんなでぼくは一時期、地元を離れたわけではあるけれど、その時、ある友人から餞別にもらったのが開高健の『花終る闇』であった。

 

友人というのは、小中高と一緒だった男で、彼もまたよく本を読み、休日にはよく酒を飲みながら夜通し本の話をしたものだった。安い酒と安いつまみでチマチマとやりながら、タバコだけは次から次に火をつけ、煙たい空気の中でぼくたちは本の感想を言い合ったり、白熱した議論を戦わせたりもした。とても懐かしい思い出だ。最近ではこういうのをエモいというらしい。

 

で、その友人だが、ぼくが地元を離れる日の前日、わざわざぼくの家まで訪ねてくれて、この本をくれた。ぼくが開高健の作品が好きで、ずっとこの本を探していたのを覚えていたらしい。当時にはもう絶版になっていたから、よく見つけたものだと思った。インターネットは普及していた頃ではあったけれど、古本なんかは今ほど簡単にネットで買えるような時代ではなかったからそれがたとえ希少本のような類でなくても、よく見つけてきたものだと思った。彼はわざわざ神保町の古書店を訪ね回って探してきてくれたのだ。

 

「百円で買えたから安くついたよ」と友人の彼は笑いながら言った。

 

彼との過ごした時期は本当に楽しいものだった。ぼくが地元の町を出ていった後、数年後に彼もまた町を出ていったらしい。彼が今どこで何をしているのかは知らない。

 

橋の下をたくさんの水が流れた。

ここ10年ばかりの時間を振り返ると、本当にたくさんのことがあった。たくさんの人たちがぼくの前に現れては消え、たくさんの時間とたくさんの夢が消えていった。

 

その中には大切なものもあったし、どうでもいいようなものもあった。それでも、その日々のことを思い出すと、とても愛おしく、懐かしく、すべてが川面に跳ねた日差しのように輝いている。流れ、過ぎ去ってしまった時間を川に例えるなら、本当に多くの水が流れてしまった。

 

それらのこと、それらの日々とそこにいた人たちを思い出すとき、川面のきらめきあるいは享楽のゆらめきで、懈怠と恍惚に満ちたあの喧騒の中でぼくたちは笑っていた。思い出というものはいつもそういうものである。

 

この本のページを繰りながら、ぼくはいつもそういった過去の光景たちを思い浮かべる。

漂えど沈まず──その一節から始まり、酒と情事、そして作者自身が体験した第二次世界大戦のことやベトナム戦争のこと、そういったたくさんの瞬間が明滅し、そして過ぎ去って、それでもなお沈むことなく漂っている。まるで日差しに温められた泥濘の中にはまっていくようである。その甘い泥の匂いは、かつての時間の中にあった瞬間たちの羅列を連れてくる。懈怠と恍惚の中で、ぼくはぼくでまるで夢を見るようかのようにそれらの過去を思い出すのだ。

 

読み終わってしまうと、そこにはもう暗い夜が降りていて、心地よい怠惰も恍惚も過ぎ去っていて、冷たい闇の中に体を冷やしながら、消えてしまった感情たちの余韻を噛み締める。

 

そんな感覚を呼び起こしてくれる作品である。

『闇』三部作の最後として、作者にとっては未完で終わってしまった作品であり、その完結を見ることができなかったのはとても残念なことではあるけれど、それだからこそそこに大切な瞬間の綺羅を見ることができるのかもしれない。

 

 

001|『千年の愉楽』中上健次|圧倒的質量を持った物語

中上健次の作品と出会ったのは、今からもう10年以上も前のことになる。その当時、信じられないことではあるけれど、ぼくはまだ20代前半で、東京駅の前にはまだ八重洲ブックセンターの本店があった(残念ながら本店は2023年3月に営業を終了してしまった)。そこはぼくがお気に入りだった場所で、職場はすぐ隣のビルだったから、昼休みともなれば、みずほ証券の電光掲示板の前を通って、よく本を漁りに行ったものだ。

 

その頃、さらに信じられないことではあるけれど、ぼくは結婚していて家庭も持っていた。子どももまだ小さくて、若いうちの結婚だったから、あまりお金はなかった。読書はずっと趣味だったけれど本を買う余裕なんてなく、それだから昼食を抜いたお金で本を買っていた『千年の愉楽』もそうやって買った一冊である。

 

なぜ、中上健次の作品を手に取ったのかはもう忘れてしまった。しかし、それほどたいした理由があったわけではない。読書をする人ならわかると思うけれど、本を読み続けていると然るべき本に出会うべくして出会う瞬間がある。──うん、こうやって書くとまるでぼくが一端の読書家であるみたいでとてもいい。

 

というわけで、ぼくはたいそうな運命に導かれるみたいにして『千年の愉楽』と出会ったようだけど、まあ、とどのつまりたまたま手に取っただけである。しかし、若かった頃に中上健次の作品に手にしたのは良かった。中上健次とはそういう作家だと思う。

 

中上健次被差別部落の出身で、故郷の集落を「路地」と称し、ほとんどの作品に登場させている。この「路地」については中上健次の評論でたくさんの書籍が出ているが、つまるところが物語の安全な中心とも呼べる場所だとぼくは思っている。そして、現実と虚構を擦り合わせるためのメタな場所、あるいは”リンボ(Limbo)”と言ってもいいのかもしれないけれど、あくまでこれはぼくの解釈なので、この話はこのくらいに留めておく。

 

千年の愉楽』はこの「路地」を舞台とした作品で、「中本の一統」と呼ばれる一族の血を引く若者たちの生き様を描いた作品である。オリュウノオバと呼ばれる産婆の意識を「語り」を主軸にしながらも、複数の視点からも語られる物語は、幾つもの時間や事象を層として重ね、圧倒的な質量を持っている。過去も未来も判然としない意識の語りだからこそ、まるで超越的に時間を飛び越え、幻想的な世界観を生み出してる。

 

特徴的な悪文と呼ばれる文体のせいで、決して万人受けするような作品ではない。しかし、リズムも読み手へのわかりやすさも無視したその文体は、ある種の熱量のようなものを帯び、圧倒的に読み手に迫ってくるものがある。

 

千年の愉楽』というタイトルは、明らかに『百年の孤独』を意識したものだと思うけれど、中上健次がどのように考えていたかはわからない。ただ、来年(この記事を書いているのが2023年だ)に『百年の孤独』が文庫化されるとのことなので、もしまだこの作品を読んでいなくて、『百年の孤独』に興味を持っている人がいたらぜひこちらの作品も読んでみてほしい。

 

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