BOOKWORM

本との出会いのこと、とか。

001|圧倒的質量を持った物語/『千年の愉楽』中上健次

中上健次の作品と出会ったのは、今からもう10年以上も前のことになる。

その当時、信じられないことではあるけれど、ぼくはまだ20代前半で、東京駅の前にはまだ八重洲ブックセンターの本店があった(残念ながら本店は2023年3月に営業を終了してしまった)。そこはぼくが当時お気に入りにしていた場所で、すぐ隣のビルで働いていたから、昼休みともなれば、みずほ証券の電光掲示板の前を通って、よく本を漁りに行ったものだ。

その頃、さらに信じられないことではあるけれど、ぼくは結婚していて家庭も持っていた。子どももまだ小さくて、あまりお金はなかった。ぼくは学生の頃からずっと読書が趣味だったけれど、本を買う余裕なんてなくて、それだから昼食を抜いたお金で本を買っていた。『1000年の愉楽』もそうやって買った一冊であった。

なぜ、中上健次の作品を手に取ったのかはもう忘れてしまった。しかし、それほどたいした理由があったわけではないと思う。読書をする人ならわかると思うけれど、本を読み続けていると然るべき本に出会うべくして出会う瞬間がある。うん、こう書くとまるでぼくが一端の読書家であるみたいでいい。

というわけで、ぼくはたいそうな運命に導かれるみたいにして『千年の愉楽』と出会ったようだけど、まあ、とどのつまりたまたま手に取っただけである。

しかし、それでも若い時に中上健次の作品に手にしたのは良かった。中上健次とはそういう作家だと思う。

中上健次被差別部落の出身で、故郷の集落を「路地」と称し、ほとんどの作品に登場させている。この「路地」については中上健次の評論でたくさんの書籍が出ているが、つまるところが物語の安全な中心とも呼べる場所だとぼくは思っている。そして、現実と虚構を擦り合わせるためのメタな場所、あるいは”リンボ(Limbo)”と言ってもいいのかもしれないけれど、あくまでこれはぼくの解釈なので、この話はこのくらいに留めておく。

千年の愉楽』はこの「路地」を舞台とした作品で、「中本の一統」と呼ばれる一族の血を引く若者たちの生き様を描いた作品である。

リュウノオバと呼ばれる産婆の意識を「語り」を主軸にしながらも、複数の視点からも語られる物語は、幾つもの時間や事象を層として重ね、圧倒的な質量を持っている。過去も未来も判然としない意識の語りだからこそ、まるで超越的に時間を飛び越え、幻想的な世界観を生み出してる。

特徴的な悪文と呼ばれる文体のせいで、決して万人受けするような作品ではない。しかし、リズムも読み手へのわかりやすさも無視したその文体は、ある種の熱量のようなものを帯び、圧倒的に読み手に迫ってくるものがある。

千年の愉楽』というタイトルは、明らかに『百年の孤独』を意識したものだと思うけれど、中上健次がどのように考えていたかはわからない。ただ、来年(この記事を書いているのが2023年だ)に『百年の孤独』が文庫化されるとのことなので、もしまだこの作品を読んでいなくて、『百年の孤独』に興味を持っている人がいたらぜひこちらの作品も読んでみてほしい。