BOOKWORM

本との出会いのこと、とか。

004|『八本脚の蝶』二階堂奥歯 | ”限界”という世界の中で

<内容>
二十五歳、自らの意志でこの世を去った女性編集者による約2年間の日記。誰よりも本を物語を言葉を愛した彼女の目に映る世界とは。


 

25歳といえば、ぼくはいったい何をしていただろうか、とふと考えてみる。

当時、大学を出て少し経った頃だったけれど、ぼくは学生結婚だったから、家族のために死に物狂いで働いていた頃だ。子どもいて、少し大きくなっていたし、毎日がとにかく必死だった。毎日日付が変わる頃に帰ってきて、まだ夜が明けないうちに起きて仕事へと出かけていくというそんな日々の繰り返しだった。

そんな生活だったけれど、どんなに忙しくても本を読むことだけはやめなかった。朝トイレに入る時は久生十蘭の短編集は抱えていたし、八重洲ブックセンターで昼休みに『アレクサンドリア四重奏』を揃いで買って、当時はまだ妻だった人に叱られたものだ。どんなに疲れていても電車の中では居眠りせずに本を読んでいた。

本を読むことに何か大きな意味を持っていたのかもしれない。あるいは闘争とも呼ぶべき何かをそこに見出していたのかもしれない。それももう今となってはわからない。あの頃は自分は今の自分が思うよりも洗練されていて、すり減っていて、ささくれ立っていた。そもそもそんな戦いだって本当はなかったのではないかとも思う。

しかし、ぼくがそんな風にして生きた時間を、その“彼女”は明確に戦っていた。膨大な数の書籍を読み、世界の深淵を覗き、そして死んだ。25歳だった。それはとても悲しいことだと思う。

 

”限界”という世界の中で

”限界”という世界があり、それを迎えてなお生きようとすることはできない。

幸いなことに、ぼくはその”限界”というものをまだ見たことがないし、「もうダメかもしれない」なんて思う瞬間の幾つもをどうにかこうにかやり過ごして生きてくることができた。

しかし、残念なことに”限界”に行き当たってしまった人を、ぼくはこれまでにも何人か見てきたし、それが自分の手によるものであれ、本当にたった一つの選択の違いによる外的な要因であれ、この世界の中から滑り落ちていった。

この本を読んだ時、思うに彼女はこの文章を書き綴りながら、とっくに限界を迎えていたのかもしれないと思った。そして、世界がそこかしこに終わりの口を開けて待っていたのかもしれないと。

この本は、彼女が2001年からブログに公開していた日記を書籍にまとめたものであり、好きな本のこと、ファッションやコスメのことを綴ったものである。彼女はぼくよりも少し年上で、ビブリオフィリオであり、乙女であり、なんだか近しい友人のことを読んでいるようでとても微笑ましかった。

しかし、その膨大な読書量とそれに裏打ちされた知識の深さは、どこかこの世界にあってはいけないような不均衡さもあり、中盤に差し掛かる頃にはその影がどんどん濃厚になってくる。それは最初から結末を知りながら読み進める側にとってはとても辛いことではあるけれど、彼女は求めてそこに進み、それが彼女にとっての救いであったのではないかとさえ思われてくる。そうして彼女はすでに”限界”を迎えた世界の中で、26歳の誕生日を間近に控えた日に自ら終わる選択をする。

死の直前まで彼女の日記は綴られており、最後の日記を読み終えて、なんともいえないような気持ちになる。

戦いつづけた人にもっと戦ってほしかったとはいえないし、そんな戦いをする必要はないのだともいえない。

だからこそ、そこにあった”限界”で彼女がせめて安息を得られたのであればと願ってやまない。

ぼくはもう戦うことをやめて、ひたすらに戦わずして得られる安息の中にいて、何もかもを諦める選択ができるようになったけれど、戦いながらも何者にもなれなかった二十五歳の自分を思い、少しだけ彼女に憧れた。